~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅶ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
張良の登場 (八)
やがて始皇帝の死と陳勝ちんしょうの反乱によって天下は沸くように乱れた。
陳勝のもとにたちまち浮浪の労役者や流民が集まって大勢力になり、陳王を称するまでになたtとき、張良ちょうりょうの反応はすばやくなかった。彼のしんに対する復讐の志から言えばすぐさま兵を挙げるべきであったが、流民を吸収するだけの実力がなかった。辛うじて下邳あたりの若者百余人を集めることが出来た。
張良はこの小部隊を率い、陳勝の旗の下に參ずべく行軍したが、途中、陳勝が秦軍のために敗北したことを知った。さらに陳勝に代って景駒けいくとう男が人々に推されて立ったことを知った。
(やむを得ぬ。景駒のもとへでも行くか)
と思ったが、心が湧きたたなかった。
張良のような男でも、この時期には人並みに激しく気持ちを動揺させた。秦をつ機会が到来していながら、時の勢いの進展のはやさに、ついて行けなかった。秦帝国の底は、大釜おおがまが割れるように抜けてしまっている。陳勝の敗死後、主を失った反乱軍が割れたかめからこぼれた水のようにしきりに流動する一方、戦国期の旧王国がその故地で復活した。しかし本物の王家の筋なのかどうかわからず、さらには指導者の人を得ていない。
張良は、一時はみずから兵を挙げようかとも思ったが、すぐ思いとどまった。
(おれは、そういう器ではない)
ということについては、張良は気の毒なほど自分を見抜いている。彼が渇ききっているのは、自分が助言を与えるべき器を見出す事だった。
実を言えば、張良が出遅れたのは、諸方を駈けまわって人に会いすぎたためであったかも知れない。どこそこに流民何百、何千を率いる首領がいると聞けば会いに行ったが、みな虚名だけのろくでなしだった。張良にすれば、ろくでなしでもかまわなかった。ただ張良の意見を聴き、れてくれればいいのだが、たれもが多少の小才覚こさいかくでもって頭をくそ袋のように詰まらせてしまっていて、ひとの意見を聴く容量を持たず。眼前の食糧、人数をほしがるのみであった。
「私は、あなたに兵法を授けたい」
といっても、たれも耳を傾けなかった。
「いま申し上げる兵法は、私の才覚から出たものではない」
という、兵法の神授説を張良が言わざるを得なかったのは、こういう諸方の首領どもの接触の過程でもことであろう。ひとつには、張良は美青年すぎた。小柄であり、なによりも無名だった。どの町に蟠踞ばんきょしている首領どもも、こういう男の言葉に運命を託す気になれなかったのは、一面、当然であった。
やむなく張良は少年をかき集め、百余人の一隊をつくって動きはじめたのだが、食わせることが出来ない。結局は陳勝の後釜あとがまの景駒のもとに行くしかなかった。
20200330
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