という町がある。
春秋の頃からつづいている小さな都市で、劉邦の出た沛はいに近い。いまの江蘇省沛県の東南にある。この時期、景駒はそこにいた。
張良は留をめざしてゆく途中、沛の圏内を通った。この時期、劉邦はすでに「沛公」と呼ばれていたが、数千人という小勢力にすぎず、このあたりの小さな秦しん勢力をしきりに攻伐していた。
(待てよ、劉なにがしという名は、聞いたことがある)
張良はその程度の知識しかもっていなかったが、ともかくも使いを出し、面会を申し入れた。
劉邦は気分のいい男で、すぐ会ってくれたばかりか、張良に席を与え、その意見を聴いた。
(聴くというのは、こういうことか)
と、張良は聴き手の劉邦を見て、花が開いてゆくような新鮮さを覚えた。
劉邦はたえず風通しのいい顔つきで張良を見つづけ、長大な体を張良に傾け、この年少の男が言うところを、沁しみ入るように聴き続けた。擬態ぎたいではなかった。劉邦の場合、小さな我がを、生れる以前にどこかへ忘れて来たようなところがあった。彼は虚心にこの場の張良を見、かつ聴いた。聴くにつれて、
(この男は、本物だ)
ということがわかってきた。虚心は人間を聡明にするものであろう。
じつのところ、劉邦の取柄とりえといえば、それしかないといっていい。張良は語りながら、途方もない大きな器の中に水を注ぎ入れてゆくような快感を持った。
最後に、劉邦は、
「わたしはつめらぬ男でやンすがあなたさえよければ客になってくださらぬか」
と、やや田舎くさく、しかし心から頼んだ。
「喜んで。──」
と、張良は頬を染めて言い、いってから、内心かすかに狼狽した。すでに景駒のもとに、その傘下さんかに入ると申し送ってある。
(景駒など、何であろう)
と、みずからを叱りつけた。俠徒には本来二言にごんはないものだが、しかし眼前に劉邦がいる。この劉邦を天下人びとにしようという志の前には、景駒への不義理など些々ささたるものだと思った。
劉邦は、張良に対し、身分としては「客」として遇する一方、軍組織においてはとりあえず廐きゆう将という官につけた。廐将というのは旧楚の官名で、直接戦闘に加わる責任を持たないが、将領として最高の軍議に出席できる職である。張良にうってつけといってよく、初対面で適職をあたえた劉邦の眼力は十分ほめられていい。
この時期は劉邦にとっても初動期で、小さな群盗の主といってよく、まだ項梁こうりょうにも会っていない。このあと劉邦は薛せつ(山東省)へ行き、項梁と会い、その傘下に入る。やがて項梁が范増はんぞうの意見により亡楚の王孫── 多分にあやしい素姓ながら──を探し出し、亡楚の最後の王と同称の懐王かいおうを名乗らせ、楚を復興した時、劉邦はその楚の一武将ということになった。
張良は、その一武将の幕僚である。
(沛公も一武将では、どうにもならぬ)
と、そのとき張良ちょうりょうは思った。
元来、劉邦は項梁の傘下に入った時はせいぜい二、三千の人数を持ちこんだだけなのである。そのあと項梁の好意で多少の人数は貸してもらったが、たかが知れていた。直接支配の人数によって楚軍の中での劉邦の地位が決まる以上、やはり大軍を吸引せねばどうにもならなかった。
「すでに楚が再興されました」
と、張良は、劉邦に説いた。
「韓かんもまた再興されるべきです。再興された韓の勢力を公あなたの指揮下に置けば、公は楚軍の中で大きな場を占められるkとになりましょう」
劉邦は、張良が亡韓の宰相の家の出であることを知っている。この男を韓の故地──潁川えいせん郡──に放って、韓の王孫を韓王として立たせ、遺民たちを吸収すれば、大きな戦力を得るのではないかと思った。 |
20200330 |
|