~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅶ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
張良の登場 (十)
「そうか」
劉邦は喜んだ。
「ただし、そのことは楚として公然とおこなう必要があります」
張良がそういうのは、劉邦がその種の工作をこそこそやれば、結局は人に洩れ、きらわれて、楚軍の中での劉邦の存在がかえって小さくなることを怖れたのである。
「私的におこなえば私軍になってしまいます」
「当然のことだ」
劉邦も、そういう男ではなかった。
劉邦が項梁にこの策を話すと、項梁は喜び、楚の力をあげてこの工作を公式に応援する、といってくれた。
張良は韓の故地である潁川郡に潜入した。彼の家はかつて三百人の奉公人をかかえる豪家だっただけに、一家一族の組織力だけでも大きかった。
亡韓の公子で、 黄陽君成 おうようくんせい という者が民間にかくれている。張良がこの成を探し出して劉邦に連絡すると、劉邦はありのままを項梁に告げた。項梁は喜び、ただちに楚に名をもってこの成を韓王にし、張良を 申徒 しんと (韓の官名で、大臣のこと)に任命した。
張良はこの韓王 せい をかついで千余人を得、この小部隊を活発に動かしつつ旧韓の数城を手に入れた。この一見 可憐 かれんい なほどの男が、実際に戦闘を経験するのは、これが最初である。
が、実戦は、さほどにうまくなかった。当初、秦軍の空白地を いたために成功したが、秦の正規軍が体制を整えてやって来ると、掌から砂をこぼすように、占領した城のことごとくを失った。
(張良はしくじったか)
と、この報告を受けた劉邦は思ったが、しかし張良への信頼はゆるがなかった。むしろ、
「あの男に、荒仕事をさせたのは、気の毒だった」
と言ったほどであった。
一方、張良はこれにこりて方針を転換した。孤立しても戦える才質の指揮官を 抜擢 ばってき して部隊をいくつもの独立した戦闘隊に分割し、ゲリラ戦をするということであった。この大陸の戦史上、確固とした戦略意識を持った上でのゲリラ戦は、この張良の韓土での働きが最初の例ではないかと思われる。
この張良の戦法は、秦軍にとっては目の前に火の粉が無数に飛んだようなものであった。 奔命 ほんめい に疲れた。これによって張良は秦軍の多くを 潁川 えいせんい 郡に足どめした。
このことは、楚軍の中での劉邦の評価をも高めた。
が、項梁の死が、状況を変えた。
当時、常勝将軍ともいえる項梁が 定陶 ていとう 城で突如敗死すると、韓王成は 後盾 うしろだて の楚軍が消滅したと思うほどに動転してしまい、張良を遊撃戦の戦場に置き捨てて はし った。奔ってやがて楚の懐王のもとに現れたときは、一種の精神錯乱者のようで、以後、使い物にならず、結局、懐王の幕営で寄食するだけの人になった。

その後、 軍内部の混乱が 項羽 こうう 宋義 そうぎ を殺して上将軍になることによって収拾され、項羽が楚軍そのものを代表する時代になる。
── 西進して 関中 かんちゅう (秦の根拠地)にまず入る者を関中王にしよう。
という かい 王の発言のもとに楚軍が二手(項羽の主力軍と劉邦の別働軍)にわかれたことは、すでに触れてきた。項羽は主力軍を ひき いているだけにこの競争には有利であった。項羽は北方でよく戦い、遂に章邯将軍を くだ して、ながらく彼の西進の足をとどめてきた 足枷 あしかせ を断ち切った。そのぶんだけ項羽は遅れた。
この間、別働して西進している劉邦軍も、かならずしもうまく行っていない。もともと劉邦にとって、懐王が彼を西進軍の 総帥 そうすい に選んでくれたことは、天与の幸運といってよかった。といって懐王とその側近が劉邦の好意をもっていたわけではなかった。それよりも項羽の暴虐さを怖れた。理由はそれだけであった。
── もし項羽を最初に秦地しんち(関中)に入れれば、かつて彼がやったように見境なく虐殺し、楚に対する天下の輿望よぼうを失ってしまうのではないか。
という疑念があったためである。
── 劉邦なら長者の風があり、項羽のように暴虐なことはすまい。
ということで、彼が西進将軍に選ばれたにすぎない。
天与ではあったが、ただ項羽軍にくらべて兵数が軍と称しがたいほどに少なく、兵の素質から見ても雑軍に近かった。西進とは、現在の隴海線ろうかいせんぞいに一路西に向かうことであったが、その前途には秦の堅城が数珠じゅず玉のように無数に連なって、その一城でも劉邦軍の手に余った。ときに卵を城壁に投げつけるほどに、この作戦はむなしかった。それでも劉邦は倦もせず、途中、陳勝ちんしょうらの敗残兵を吸収しつつ、ときに敗れ、ときに勝った。その戦いの軌跡きせきは酔漢の足取りのように頼りない。
「劉邦は、弱い」
張良も思わざるを得なかった。
ただし彼は、この間、劉邦の幕営におらず、韓地にあって遊撃戦で奔走していた。彼の功と言うのは、せいぜい劉邦の進路をはばむ秦兵を一人でも多く自分の方に引き付けておくということにすぎず、要するに張良が歴史に印象付けた彼らしい働きの段階には、まだ入っていなかった。
20200331
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