~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅶ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
張良の登場 (十一)
ここで筆をとめて、地図をながめてみたい。
「西進して関中へ」
と呼号することによって全軍の士気をたかめつつも、実際には北進したり南進したりしている劉邦軍の動きが、地図をながめてみると、影絵のように浮き出て来る。
もともと劉邦の出発点は、懐王のいる彭城ほうじょう(いまの江蘇省・徐州)であったが、最初から西へ直進していない。まず、彭城の西北方にある昌邑しょうゆう(山東省・金郷県)に魅力を感じ、これを攻めた。ここに秦兵が多くこもり、武器や食料も豊かであった。この時期、天寒く、北上して行った項羽軍と同様、楚軍全体がだんをとる薪にも困っていたころで、反乱の世が始まって以来、秦軍の盛り返しという状況の変化もあって、反乱軍の胃袋といい、士気といい、もっともうらぶれたときであった。要するに楚軍が勢いに乗って関中をめざしたわけでなく、から景気であっても、そういう運動でも始めねば、反乱そのものが自滅するかも知れないきざしも出はじめていた。
(昌邑でもおとさねば、これはどうにもならぬ)
と劉邦も思っていた。彼が西北方へ行って昌邑をろうとしたのは、正規軍の戦略ではなく、流賊のそれだった。城よりも食糧と武器、それに寒さを防ぐ衣類がほしかったのである。
ところが、囲んで負けてしまった。
昌邑の秦兵は城壁をよく守っただけでなく、城門を開いて打って出ることもした。これには劉邦もへきえきした。兵は、蠅のようにちりぢりに逃げた。劉邦自身も、走った。
(やはり、りつ──河南省──をやるほうがよかったのだ)
劉邦はべつに定見がなかった。当初、栗もいいと思ったことを、走りながら思い出し、軍勢をまとめてはるかに南下した。
まことにとりとめない。
栗にやって来ると、すでにその城壁を囲んでいる軍があり、さぐってみると、味方だという。さらに調べると、懐王の手もとから別に発した一軍だという。首領はたれか、と聞くと、「剛武侯ごうぶこう」というお方だ、ということであった。
(懐王は、いいかげんなことをする)
と、劉邦は思った。この西進の総帥は自分であるはずだのに、自分の知らない別軍を派遣するとはどういう料簡であろう。
「剛武侯などともっともらしい貴称を貰っていますが、どうせどこかの夜盗の親分でしょう。追っ払ってその兵をあわせましょう」
と献言する者があって、劉邦は、そうだ、とひざを打った。まったくそのとおりだ、と献策した者が面食らうほどに度外どはずれた大声を出して賛成した。剛武侯を招くと、喜んでやって来た。それを逮捕し、鄭重に懐王のもとに送り返し、その兵四千をあわせた。
「殖えた」
劉邦は、喜んだ。
が、彼らを食わさねばならない。それには眼前の栗城を攻めてその食にありつくことであったが、雑軍の力では容易に陥ちない。
そのうち、系統の異なる他の流民軍も、栗の豊かさを聞いてやって来た。首領は皇欣こうきんと言い、の将軍を称していた。
劉邦とその幕僚は、素人しろうとだけに気が変わりやすい。
「これだけの軍勢ができれば、栗など攻めているよりも、もう一度北へ戻って昌邑しょうゆうを奪ってしまおうじゃないか」
と、煮えかけた鍋をほっぱらかすようにして栗を退き、北進してともどもに昌邑を囲んだ。
が、依然として抜けなかった。
「では、西へ行くか」
と、劉邦とその幕僚たちは、もう気が変わってしまった。
結局、西に向かった。米蔵こめぐらに中に入りかねているねずみが、外壁のそばにこぼれた米を食い散らしては他の米蔵へ走って行くような具合であった。
20200331
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