途中、高陽 (河南省)という小さな町を通過した。この町は、流民の勢力圏に入っている。
高陽の町には
「狂生きょうせい」
と、町の人々から呼ばれている人物が住んでいる。狂などというのは、後世、思想家や文人が、みずから現実を超脱する気分をあらわすときに頻用ひんようし、いわば姿のいい言葉になったが、この時代、町の人がそう呼ぶのは、素朴な意味での侮辱語であったにちがいない。
姓名は、酈食其れきいきという。酈などというむずかしい漢字は地名と姓だけに使われて、文字そのものに意味はない。名が、食其いきという。食をわざわざイと発音する例はめったになく、人名の場合に稀にそれがあり、この音は後代ほろび、日本の漢音にも現代中国語にも継承されていない。酈食其は、その姓名からしてすでに偏屈者のにおいがあった。
代々高陽の町の人で、家は貧しかった。若い頃から書物が好きで、弁才に長じ、たれに対しても、木で鼻をくくったような態度で接した。彼の学派は、儒教である。諸子百家の時代から遥かにへだたらないこの時代にあっては、百家の思想はそれぞれ教団のような形で継承され、孔子を教祖とする儒教の教団も、そのうちのひとつにすぎず、後世のような中国的教養そのものにはなっていない。むしろ儒者は、他人の服装、容儀、行儀にやかましく、いちいち指摘する癖へきがあったから、一般からは煙けむたがられるか、嫌われる傾向があった。
酈食其の職というのは、この小さな町の門番である。礼という宮中儀礼にまで通じていながら、身は一介の門番に過ぎないという境涯も、この男を偏屈者にしていたといえるかもしれない
彼が番をしている門を、さまざまな流民軍が通過してゆく。彼はいちいちその将軍たちを見て、酷評した。西に向かおうとする劉邦が門を通った時、
「沛公はいこうだけがちがう」
と、おどろき、沛公だけが大度量の長者の風があり、ひとの意見を聴きそうだ。と言った。人の意見を聴くのは劉邦の得意芸であったが、それをひと目に見抜いた当たり、酈食其れききが波の人間でなかったということであろう。
その午後、劉邦は他の町に宿営した。
酈食其は、この沛公に物を教えてやろうと思い、高陽の町の出身者で劉邦の親衛隊の下級士官をつとめている男に橋渡しを頼むべく会いに行った。
「そりゃ、むりだよ」
と、同郷の下級士官は、儒者らしく冠かんむりを正し、粗末ながら衣服をきちんと整えている酈食其に言った。沛公の儒者ぎらいというのは鳴り響いたもので、たとえ謁えつしてもらっても話にもなるまい、とその男は言うのである。
「沛公のために会うのだ」
わしのために会うのではない、それをとどめようとするお前は沛公のために不為ふためを働いていることになる、それでもよいのか、というと、その男はやむなく取り次いだ。
劉邦は、土地の富家を宿舎にしている。一日の行軍が終わったばかりで、
(あとは、めしだ)
ろいう楽しみが、体中にうずいている。この楽天的な男には食欲不振などということがまったくなく、べつに乱世に乗り出さなくても身のを食う楽しみだけで生涯退屈なしに送れるというふうなところがあった。婦人への欲望もさかんで、行軍中、気に入った女を数人連れ、身にまわりの世話をさせている。この時代の婦人は男に男に狎なれると口躁くちさわがしく、ときにたけだけしくなり、荷厄介にやっかいなものであったが、劉邦はべつにそのことをうるさがる風でもなく聴いてやり、ときにそれを喜ぶ様子さえある。
この夕、劉邦は縁えんに腰を掛け、土間にたらい・・・を置かせて、二人の婦人に左右から足を洗わせていた。
「たれじゃ、今夜のspan>伽とぎは」
劉邦がいうと、二人は顔を見合わせた。決まっていないようであった。
「くじ・・でも引け」
劉邦は、命じた。お前にする、と言えば二人の心が軋きしむ、勝手にくじで決めて来い、というのは、いかにも劉邦らしかった。
酈食其は、そこへ入って来た。劉邦は、この高陽の門番が入って来ても足を洗わせることをやめず、
(ああ、先刻、取次とりつぎのあった男か)
という程度の顔をして、酈食其を見た。
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20200401 |
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