こういう場合、儒礼はうるさかった。劉邦はすでに貴人である。酈食其としてはそれなりの拝跪の礼をとらねばならないのだが、かれはわざと、同列の友人に会った程度の礼をとり、立ったまま両手を前に組み合わせただけだった。酈食其は、劉邦の無礼さに腹を立てているのである、声をはげまして、
「沛公」
と、言った。
「あなたは、無道の秦を誅滅ちゅうめつされようとしている。まことでありますな」
「まことだ」
劉邦は、二人の婦おんなの細い肩を同時に愛撫しつつ言った。
「私はあなたよりも年が長たけがている。しかもあなたに物を教えようとしとぃる。ここに立っている酈食其は高陽の門番でなく、長者です。あなたがどうしても秦を誅滅したいというなら、縁に腰をおろしたまま長者に会うようなことをなさらぬほうがよい」
「アア」
劉邦はあわてて二人の婦から布を取り上げて自ら拭き、上へあがってすぐ衣服を整えた。
あらためて酈食其を案内して上座に据え、自分はさがって身をひくくし、聴く姿勢をとった。
(思った通りの男だ)
と酈食其れきいきは満足し、劉邦のために秘策をさずけた。
「このあたりに陳留ちんりゅうという町があるのをご存じでござるか」
「町の名だけは知っている」
「そこに食しょくがある」
と、酈食其は言った。
── 陳留には、秦が県下の穀物を集めて蔵している官倉がある。もしこの町を陥せば士卒は飢えから救われる、と老儒生は言い、しかも自分は陳留の町の内情に通じている、というのである。さらに、内部からこれを崩壊させる自信がある、とも言い、その方法を説いた。
「これは有難いことを伺った」
と、劉邦は彼を幕僚の一人にしたが、数日見ているうちにこの人物が、以前からの劉邦の身内たちにない弁才という能力を持っていることに気付き、他日、外交にあたらせようと思い、会ったばかりといっていい酈食其を「広野君こうやくん
」という貴族的な呼称でよぶことにした。さらにその弟の酈商れきしょうもまた能力がありげだったっから、これを将軍にし、兵を挙げて陳留襲撃を担当させた。酈兄弟は大いに働き、陳留を襲撃する一方、工作して守備兵をことごとく降伏させた。劉邦は陳留の降兵をことごとく酈商将軍の指揮下に入れ、穀物は劉邦軍の兵站へいたんに積みあげさせた。
木天蓼またたびという樹がある。初夏になると白い五弁の花をつけ、晩夏には黄色い実をつける。それを乾燥させたものを火にくべると、風のまにまに匂いがひろがって四方の猫を招き寄せるといいが、劉邦の陣営にあらたな食が集積されたという報は四方にひろがり、たちまち流民が百人m千人と集まって来た。
劉邦は、西進への道々酈食其のような奇才の士をひろい、奇功を立てさせることによって勢力を膨らませた。それら功を立てた者への恩賞は吝おしみなくあたえた。寛容さと気前のよさという劉邦の特質は、劉邦一個の能無しを補って余りがあり、肝心のいくさ・・・のほうは一向にはかばかしくないのに、この一軍はつねに陽気で、ここだけ陽が照っているぐあいでもあった。
ついでながら、酈食其が劉邦のために外交の辣腕らつわんをふるうのはすこし後のことになる。彼は諸方に使いし、ついに斉せいの田広でんこうをだました結果になって、大釜で煮殺されるはめ・・になる。乱世の外交家としては、むしろ華やかな最期であったともいえる。 |
20200401 |
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