~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅶ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
関中に入る (一)
劉邦りゅうほうの人間について、
「生まれたままの中国人」
という含蓄がんちくに富んだ表現を古くは内藤湖南博士がつかい、近くは貝塚茂樹博士がつかっている。
中国の長い歴史の中で無名の身から身をおこして王朝を建設したのは、劉邦以外にない。他にみん太祖たいそ朱元璋しゅげんしょうがあり、おなじく卑賤の出ではあったが、しかし朱元璋の場合、流浪の托鉢たくはつ僧として多少の文字があり、詩文をつくることが出来た。劉邦とい男はそういう余計なものも持たず、この大陸の土俗の中から生まれ、土俗という有機質を、育ちの良さや教養でそこねたり失ったりすることなく身につけ、文字通り裸のまま乱世の世に出た。
劉邦が、自分に後天的な属性を付加しようとしたのは、かつて触れたように、戦国のの貴族でかつ大俠たいきょうともいえる信陵君しんりょうくんを尊敬してその独特の俠心を学ぼうとしたぐらいなことで、あとはただ土俗人として思考し、ふるまい、平素、外見はおやじのように茫々ぼうぼうとしていた。
項梁はただ、
「おれのくせざるところは、人に任せる」
という一事だけで、回転してきた。劉邦は、土俗人ならたれでも持っている利害得失の感情能力をそなえていたが、しかしそのことは奥に秘めてあらわにせず、その実体はつねに空気を大きな袋で包んだように虚であった。ひとの印象では、そも虚なる袋は次第に大きくなった。数百の首領として沼沢しょうたくけ回っているときはその程度の虚であったが、しかし数十万の首領となった今、一見、際限もないかと思われるほどに大きな虚になっていた。

劉邦とその麾下きかの諸軍は、関中かんちゅう高原の東辺の低い野を上下しつつときに城市お囲み、ときに野戦し、一勝一敗した。しかしながら、めざしところの関中へは容易に近づくことが出来なかった。
すでに張良ちょうりょうが劉邦の帷幕いばくにいる。
張良が、かつてのかんの地で専念していたゲリラ戦の指揮を他にゆずり、劉邦の帷幕にやって来た時は、劉邦は開封かいふう城外にいた。城を囲んではいたが、開封城の壁は固く、その城頭に立ってを射るしん兵は強く、劉邦の軍はただ野に満ちて長囲するのみでなすところがなかった。ひとつには、流民軍としての劉邦の側は、慢性的に兵器が足りず、精巧な兵器は秦軍がこれを独占していたということもあった。かつて秦の始皇帝しこうてい が、彼が亡ぼした六国りっこくがふたたび武装することのないよう天下の兵器を咸陽かんように集めてこれをつぶすということをやったが、その効が秦軍に幸いし、劉邦軍を苦しめた。とくに不足しているのは、矢の先端につける重いやじりであった。この時代の鏃はすでに銅のよなやわらかいものではなく、真鍮しんちゅうのような感じの硬い合金で、民間で簡単につくれるようなものではなかった。
「開封など、しばらく置き捨てましょう」
と、張良は言い、劉邦の目を南方に向けさせた。南方のかつての韓の地は小城が多く、抜きやすいばかりか、張良の息のかかった遊撃隊や諜者ちょうじゃが無数にいた。張良の策は、これらを使て敵を動揺させる一方、劉邦の主力軍をもって小城をいちいち攻めつぶし、その兵器を奪い、攻撃力をしだいに充実させてやがて大敵に当たればいい、というごく常識的なものであった。劉邦は簡単に賛成した。張良の実力が十分にわかっているわけではなったが、
(こいつは、ひどく冷たい顔をしている)
という、妙な箇所に劉邦はかれつづけていた。張良が冷酷であるということではなかった。張良というこの秀麗な容貌を持った男は、どういう場合でも気分や表情を変えず、その意味ではなにか葉をみつづけている白い幼虫のようで、むことなく敵味方の数量計算や心理の推量、それに地理的あるいは時間的要素などを考え続けていた。こいつも化けものだ、と劉邦は思った。劉邦の好きなかつてのの信陵君の食客にも多種類の化けものが居たように、張良だけでなく近頃の劉邦の幕下のこの手の化けものが多く集まっている。
(張良にたらせてみよう)
劉邦はひとまず任せることにした。任せるとなると劉邦は徹底していて、全軍の指揮権を気前よく張良にあずけてしまった。
この気前の良さに、張良の方も驚かざるを得ない。彼は本来、机上の兵法家であった。軍事に習熟していたわけではなく、自信もなかった。しかしいきなり指揮権を持たされてしまったことによる責任感と、軍隊という生命を敵と交換し合う集団の重さが、彼を数日でもって百戦の玄人くろうとにもひとしい実質感覚の人に仕立てあげた。
2020403
Next