張良は、開封城外から逐次兵力を南下させ、それたを分散させたり集結させたりして、かつての韓かんの地の小城を、いわば落ち栗くりを拾うような容易さで抜いて行った。
しかし落ち栗の価値は所詮落ち栗でしかなく、劉邦幕下の他の将軍には張良が無駄な作業をして時を浪費しているように思えてならなかった。関中に達するのは項羽こうう軍と競争である以上、悠暢ゆうちょうな道草は許されない。
── 張良は開封を置き捨てて南方の野を掠かすめている。つまり開封を孤立させようということか。
と、張良に好意的な連中は想像したが、この想像は現実とは適あっていない。開封は東西にわたって数珠玉じゅずだまのようにならぶ秦の堅城群の一つとして他の数珠とがたがいに連繫れんけいしあい、決して孤立するという状況にはならない。
張良は、それを目的としていなかった。大目的はむえおん関中に攻め入ることであったが、それへ至るために、まず項梁軍を強くせねばならぬと思っていた。一つには秦の兵器を獲得し、一つには弱い城を攻め潰すことによって、戦えば必ず勝つという自信を士卒につけさせることであり、さらにいま一つの目的は、秦軍を城々からおびき出して野外で決戦し、北方の鉅鹿きょろくの野で項羽がやってのけたような快勝をおさめ、劉邦軍の評判を敵味方に対して高くすることだった。
(劉邦軍の今までの動きというのは、ただ敵地で漂ただよっているだけだ)
と、張良は見ている。これでは強勢を誇る項羽軍とのひらきがますます大きくなり、もし秦を亡ぼした場合、楚軍全体の中での沛はい公(劉邦)の発言力を弱くしてしまうし、また一方、日常の戦闘もやりにくかった。項羽軍より劉邦軍の方が弱いとみて秦軍はかえって勢いづき、士気を高め、かさ・・にかかって攻めてくるため、負けずともいい戦いでも利を失うことが多かった。
張良のこの落ち栗ひろいは、秦軍を刺激した。秦軍はたまりかねて城々を出、劉邦軍を打撃すべく、野戦軍の編成にとりかかった。
楊熊ようゆうという秦将が、その総帥に任命された。
(どうもこれは、おれの思惑通りになってきたようだ)
と、南方で戦っている張良がこの情報を得たとき、そう思った。元来、張良が情報収集というこの地味な作業に注ぎ込んでいる金と人は、この当時の常識をはるかに越えたもので、秦人の動静は秦人よりもくわしということはいえた。
── 秦の楊熊将軍は白馬はくば(地名)まで来て兵の集まるのを待っている。
という情報も得た。白馬とは今日の河南省滑かつ県の西方にあった地名で、張良は楊熊の野戦軍が膨ふくれあがらぬうちにこれを撃つべく北上し、諸将それぞれに策を授け、陽動、奇襲、包囲をくりかえしてこれに大打撃を与えた。楊熊はこの意外な敗戦に仰天し、少数の兵を率いて曲遇くぐう(河南省)にのがれたが、張良はあらかじめ楊熊がここに逃れてくるものとみて予備隊を起動させ、さらにこれを破った。秦軍は灰を吹いたように四散してしまい、楊熊は身一つで走り、官倉のある滎陽けいよう城に逃げ込んだ。
「秦軍が大敗した」
という敗北の報は、秦都咸陽に尾ほど大きな衝撃を与えたらしい。都下の動揺がいかに大きかったかということは、宦官かんがんの趙高ちょうこうに籠絡ろうらくうされて宮殿の奥で逸楽いつらくを楽しんでいた二世皇帝胡亥こがいの耳にさえ聞こえたほどであった。
二世皇帝ははじめて事態の切迫を知った。狼狽ろうばいと恐怖は、関東(函谷関かんこくかんの東方)の野で敗まけた楊熊という一将軍の罪を問うという一点に集中し、
「殺せ」
と、命じた。胡亥が、即位以来、秦帝国の政治についてっやったことといえば、この一事ぐらいのものであった。
皇帝の使者は滎陽城に入り、場外の野に楊熊を引き出し、衆人に見物させつつ、罪状を読み、首を刎はねた。
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2020404 |
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