~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅶ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
関中に入る (三)
この勝利は劉邦軍を力づけただけでなく、劉邦が張良という男を信頼する基礎となった。らてよりも張良自身、
(いくさ・・・というものは、勝つための手だてを慎重に重ねてゆけば必ず勝つものだ)
と、大いに自己の方式を信ずるようになった。
張良はこの戦勝のあと、指揮権を劉邦の手に返上した。大軍総帥としてのその座にすわるには物事についてよほど無神経な人間でなければつとまらぬようであり、張良は数ヶ月で両眼が飛び出るほどに痩せてしまった。
「私には、むりです」
と、劉邦にいうと、劉邦は顔じゅうに笑いを広げ、きみにすべてを任せればわしは楽だと思っていたが、総帥の座というものはそれほど心労がともなうものか。と言い。
「わしなどは馬上で居眠っているだけだ」
と言った。張良はこれを聞きき、
(なるほど、この人の内部はそういう仕組みになっているのか)
あらためて劉邦が大きな空虚であることを思った。張良は将権を代行すると、まずいことが多かった。彼が一個の実質であるため、彼に協力する劉邦の幕下の多彩な才能ともいうべき諸将は張良の意中をいろいろ忖度そんたくすることに疲れ、結局はその命を待って動くのみで、自らの能力と判断で動かなくなってしまう。とくに後方補給と軍政の名人という点で張良以上である蕭何しょうかの場合、この弊がいちじるしかった。張良の作戦が正と奇を織りまぜて複雑になるため、蕭何にすれば補給をどこに送っていいか分からず、結局悪意でなく怠業たいぎょう状態に陥り、張良がいちいち後方の蕭何へ連絡者を走らせて命令と指示を伝えねばならなくなった。このため張良も疲れ、蕭何も疲れてしまうのである。
これが劉邦に指揮権が戻ると、幕下の者たちは劉邦の空虚をうずめるためにおのおのが判断して劉邦の前後左右でいきいきと動きまわり、ときにその動きが矛盾したり、基本戦略に反したりすることがあっても、全軍に無用の疲労を与えない。
「私が指揮しますと、二度三度は勝をおさめ、それにより士気もあがりますが、ややがてはべつの要因で全軍に弛緩しかんがあらわれます。それがもとで軍そのものを自潰させることになりかもしれません」
と、張良は自分の欠点を正直に言った。正直はこの作戦家のきわだった特徴というべきものであった。さらには、一面、正直に自分の価値の長短を劉邦に把握させておくことによって、劉邦から怖れられるということを防いだ。ともかくも二、三の勝利作戦の後、張良は幕僚にもどり、彼の好むところの情報収集に専念した。
劉邦は、元来、抜け目のない男で、それがときどき出た。
── 関中かんちゅうへ意外な者が一番乗りする恐れがある。
という情報が、北方の趙の別働隊の将である司馬卭しばこうの動静と共に伝わった時、劉邦のやり方はあくどかった。司馬卭は北方からまさに黄河こうがに近づき、関中へ入る勢いを示していたのだが、これに対し、外交で調整する手はあるはずだったが、劉邦は一軍を急行させて平陰へいいんという渡河とか点を占領し、友軍である司馬卭の軍を脅迫しつつ、渡河を武力でおさえこんでしまった。
しかも劉邦の主力はその渡河点からおよそ遠い南方にあり、さらに南下を続けている。南下が張良の献言によることはいうまでもなかった。劉邦は張良の言をよくれ、それをあらたな大方針としていた。ついに現在の河南省の西南部の南陽なんよう城という郡都(南陽郡三十六県の治所)まで南下し、これを一撃してしんの守将をはしらせた。この勝利によって、南陽城の武器と広大な南陽郡一帯の穀物を一挙に得、兵は大いに飽食ほうしょくし、かつ装備が充実し、旗幟きしは見違えるほどふるった。
(これで、ようやく関中に入れる)
と、劉邦は思い、軍を部署し、全軍に命じ、関中への西進を開始した。馬はあががり、兵どもの足は歩々ほほふるった。ときに、夏は過ぎようとしている。
2020404
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