~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅶ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
関中に入る (四)
「西進」
ということは、張良は聞いていなかった。彼は西進が決まった時に劉邦の幕営におらず、はるは後方にあってしきりに諜報を集めていた。劉邦の主力軍が西進しはじめたことを知って驚き、壮夫百人を集め、交代で輿こしをかつがせ劉邦を追った。張良にすれば、さらに南進すべきであった。
(えんを置き捨てては、大害がある)
というのが、張良が顔色を変えるほどの憂慮だった。
秦の南陽郡の太守は、劉邦に南陽城を一撃されると、この城が守備に適しないという理由もあり。すぐさまその南方に奔り、宛県の県城である宛城にもぐりこみ、ここを籠守ろうしゅする気勢を示した。劉邦はそれを見て、かつて張良が開封を置き捨てよと言ったことを思い出し、その理論・・を宛の場合に適用したのである。
(宛城など、置き捨ててしまえ)
が、開封と宛とは、条件が違っていた。以下のような想像が成り立つ。劉邦軍が西進して関中へ入る嶮路けんろにさしかかるころに、当然、嶮路を守る秦の守備軍と衝突するだろう。そのとき後方の宛城の秦軍が奔出ほんしゅつして劉邦軍の後方を襲えば、劉邦軍は狭い嶮路で立ち往生してしまい、全軍谷へ突き落とされて敗滅せざるを得ない。西進するのはかまわない。が、それにあたって、まず宛を攻め潰しておく必要があった。
張良が劉邦の車に追いつき、許しを得て車内に入り、そんp必要を説いた。
「ああ、そうだったか」
このあたり、劉邦の虚における凄味すごみといってよく、自己の意見をわらじのように捨て、張良が十分に説明を終えないうちにとりあえず全軍に停止を命じた。大軍というものは一度進軍の部署を決め、それぞれに目標をあたえて発進させると、止め難いものとされている。劉邦はそういう点、平然といしていた。
「西進は、あとだ。まず宛を攻めるのだ」
と、さきの命令を取り消し、全軍をひるがえして宛城を囲んだ。
宛は遠い昔、の領土であったが、戦国のある時期からかんの領土になり、このため城内には、亡韓の宰相の遺児である張良を知る者が多い。とくに張良が劉邦の帷幕いばくにあって亡韓の民たちを綏撫すいぶしているということはよく知られている。郡の太守の舎人しゃじん(家令)をつとめていた陳恢ちんかいという男もこの事情を仄聞そくぶんしており、その主人に説き、降伏をすすめ、そのための使者になることを買って出た。
陳恢は宛の城壁の上から軍使であることを示し、やがて梯子はしご で降りて劉邦に会った。陳恢というのは劉邦が一見しただけで気の弱そうなことがわかる小男で、はじめはただ驢馬ろばのように息を吐くのみで、声にならなかった。
「太守の降伏を れることは、あなたにとって得でございます」
という得失論を陳恢は弁ずるつもりであった。この種の弁論は戦国の頃の諸国に充満していた策士や天下を周遊した遊説家ゆうぜいか たちがさかんに弁じたがために型も方法も出来上がっており、陳恢のような男でさえ声さえ出れば論理は型どおりに立てることが出来た。
やがて、陳恢ののどから声が出た。
韓のおんであった。聴き取りにくい所は、張良が劉邦に通訳した。
はい公よ、あなたたちの王である楚のかい王が、真っ先に関中の咸陽かんように入った者を関中王にするという約束をされた旨、聞き及んでいます。ところであなたの眼前の宛城は南陽郡でも最大のまちで、城壁は高く、兵となるべき住民は多く、食糧が豊富であるだけでなく、これに連なる城市は数十もあります。役人も住民も、たれもがもし降参すれば殺されると思い、必死に防戦しようとしています。これをお攻めになれば短い日数ではちず、結局は足枷あしかせになって容易に関中に入れないでしょう」
と、型のように劉邦の弱味をくのである。
「私の言う事が間違っていましょうか」
陳恢は反問した。
「あなたのおっしゃる通りです」
劉邦も、論理上、そう答えざるを得ない。
「ひるがえってあなたのためを考えますに」
という言い方も、型通りであった。いっそ太守をこうに封じなさい、と恩に着せて言う。侯に封じ、このまま宛にとどまらせてこのあたりの守備をさせ、さらには太守の麾下きかの秦の精鋭の武装兵をことごとく公の麾下に入れ、西進にお使いなさい。公がかかえているいくつもの難題が一挙に解決するだけでなく、この先公の進撃路をはばんでいる諸城も宛の例を聞いてあらそって降伏し、御味方につくことになるでしょう、と言った。
(なるほど)
と、劉邦は感心してしまった。
劉邦は本来、一介の土匪どひにすぎない。反乱に参加して以来、組織的な秦軍の降伏を受けたことがなく、まして秦の郡の太守という、その統治地域のひろさが戦国のころの国王の領土に匹敵するような大官からのこうの申し出を受けたことがなかった。ましてこれをかつての封建制の「侯」に封ずるような大それたことをしたことがなく、第一、秦の側からの申し出もなかった。大勢はたしかに変わった。
(秦人は、弱気になった)
劉邦は思った。
(張良の白馬の一戦が、このあたりの秦人の戦意をくじいたのだ)
と、思ったが、それ以上に大きかったのは、去年の暮、はるか北方の鉅鹿きょろくにおいて秦の大野戦軍が項羽こううのために大敗を喫したということであろう。次いでこの夏の暑い盛りに秦の野戦活動を一手に支えていた章邯しょうかん将軍が項羽にくだり、楚のよう王の称号を与えられたことがとくに大きかった。この風評はしでにこの南方にも聞えていて、土地の太守も、数ヶ月前なら思いもよらなかった投降と転身への思案を飛躍させているのである
劉邦はむろん許した。城外で太守に会い、この臆病な先帝国の庁長官に殷侯いんこうと称せしめただけでなく、使者に立った陳恢をも行賞し、千戸のゆうほうじた。
(秦の壁が崩れ始めた)
という実感が潮のように胸に満ちた。
(ただし、わずかに崩れただけだ)
とも思った。今まで難戦を重ねて来てとうとう秦帝国には勝てぬと思うことがしばしばだっただけに、この新事態をもってすべての情勢をすのは無理だと一方では思った。劉邦は若い頃、人がいやがるほどに軽妄けいもうなところがあったが、年はもう四十を越え、かつは反乱に起ちあがって以来の苦労もあって、毛のすり切れた老猫のように、眼前の小事には躍らなくなっている。
2020406
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