~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅶ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
関中に入る (五)
やがて、赤い旌旗せいきをたなびかせた劉邦りゅうほう軍がえんを出発し、西に向かった烈日が、兵士たちの甲冑をりあげた。劉邦は車に揺られていた、車の中ではこの行儀の悪い男はほとんど半裸のまま寝そべったり、足を水に浸けたりしていた。この大陸の文化は、のち儒教主義になっていよいよ礼教がっやかましくなるか、それ以前から裸形らぎょうを卑しみ、たとえ独居していても裸になることは野蛮人になりさがることだとされていたが、劉邦はこの点、平気だった。ただ幕僚が会いに来るときはあわてて例の竹の皮の劉氏冠りゅうしかんをつけて、衣服で肩をおおって体裁をつくろった。
(本当に、関中かんちゅうに入れるかどうか)
と、この行軍中、劉邦はなおも疑問をにこしていた。
関中盆地(陝西せんせい省)は、古い世、しんという半未開の王国がおこった地方で、秦が帝国になってからも他へ動かず、ここが帝国の策現地になり、咸陽かんようは王都から帝都に昇格して全大陸を支配している。
劉邦たち反乱軍がひしめき沸騰ふっとうしてる舞台は関中台地から見れば函谷関かんこくかんの東方であり、いわゆる中原ちゅうげんであった。中原とはいうまでもなく古代よりのかん民族の根拠地をさす。今日の行政区分でいえば河南省が中心で、その範囲は東を山東省の西部にかぎり、西は関中をふくめる。ただし自然地理としての関中は特殊で、中原から見れば西方の巨大な高台をなし、北方や西方は騎馬民族の居住空間につながってゆき、きょう族や匈奴きょうどといったような夷狄いてきふえが聞こえて来そうな印象が濃い。
中原から関中の台地へ入る場合、天嶮がそれを遮っている。その天嶮の一つに人工の要塞工事が加えられたのが函谷関であった。さらには函谷関に達する前に開封かいふう滎陽けいよう洛陽らくようなどの城々がつらなっている。これをいちいち攻め潰してようやく函谷関に達し得る。
── 函谷関を破ってまっさきに関中に入る者を関中王とする。
と言ったかい王の言葉も、逆に函谷関を破る事のかたさがことばのイメージの中に含まれていた。劉邦も当初、東流する黄河の線上を西へ向かったのだが、いたるところで大小の城郭に阻まれ、結局は張良ちょうりょうの助言を容れて黄河の東西線を遠く去り、えんまで南下してしまったのである。つまりは、函谷関からはるかに遠ざかった。
張良と言う男の思考力は、たしかに尋常ではない。たれもが関中に入るためには函谷関を経るということにとらわれていたが、張良はこのことからまぬがれていた。
関中は「天府てんぷの国」と言われていながら、「金城千里」と言われるほどに自然の嶮によってふちどられ、下界に対して函谷関だけでなく関門がいくつかあった。それらのうち南方の一関である武関ぶかんという存在が存外、世間の平素の認識から遠い。
「函谷関にとらわれず、武関から入ればよいではありませんか」
張良は劉邦に説き、容れられた。
なんといっても張良は韓人であり、韓地から関中台地にのぼってゆく間道を知っている。丹川たんせんという渓流が関中のほうから亡韓の西辺に流れて来ているが、その渓流づたいに登って行けば武関の嶮に達するということを当然のこととして張良は知っていたのである。
宛を西に向かって出発した劉邦軍は、張良が助言したその経路をとっている。
2020406
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