~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅶ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
関中に入る (六)
(官吏というのは、なんと弱いものだ)
と、劉邦は思わざるを得ない。西進する沿道の諸城は、もな南陽郡の太守にならって降伏してゆくのである。以前の封建制度ならばもし劉邦のような外敵が侵入した場合、その地域ごとの王のもとに家臣団が結集して防ぎ、領民までがそれを支援して頑強なものであったが、法家ほうか主義のもとに封建を全廃して郡県を置き、官僚をもって行政者としたしんの制度の場合、国家がうまく行っているときの運営には最適だがひとたび帝国が危難におち入ると官僚はわが身を保つのに汲々きゅうきゅう としてその治所を死守しようとはせず、また下僚や人民の側も官僚を主人として忠誠心を発揮するということはない。すくなくともこの段階になって官僚制の弱点があらわれてきた。
関中における中央もそうであった。咸陽かんようの宮廷は皇帝の家臣団で構成されているというよりも、各部署は官と吏で運営されており、忠誠心と言うえたいの知れぬネルギーが発現されにくくできていた。秦のこの制度は、始皇帝しこうていのようなすぐれた元首が存在する場合、封建制よりもはるかに精妙に作動するもののようであったが、官僚制という大機構を使うすべを知らない二世皇帝胡亥こがいの場合、どうにもならなかった。
劉邦りゅうほうは簡単に武間をやぶった。
この報はたちまち咸陽かんように走り、宮廷と城の内外を大混乱におとし入れた。
このころすでに宦官かんがんの趙高は丞相じょうしょうとなり、官僚機構を一手に握っていたが、
(これでしんは亡びる)
ということをたれよりも早く察し、むしろ積極的に滅ぼす側に立つことによって侵入軍の心証をよくしようと考えた。宰相の趙高は中国の宦官史上、最初の宦官悪の代表者とされる。宦官の特性も、典型のように多量に持っている。少年の悪事のように欲しいものを手に入れることについての策謀に熱中するのである。ただせの前後をかえりみる政治的感覚に欠けており、それだけにやることはすさまじかった。
ともかく趙高は、その生涯でもっとも多忙な数日を送ることになった。まず二世皇帝胡亥を殺さねばならない。
理由は二つあった。ひとつはいままで胡亥を政務から遠ざけるために中原ちゅうげんの敗況を一切ひたかくしにしてきたのだが、それが一挙に知れてしまう。これを怖れた。胡亥と言えども怒るであろう。当然、趙高を殺そうとするにちがいないが、趙高の側からすれば殺される前に胡亥を殺す。趙高の思案はつねに即物的で、いま一つの理由もそれに似ていた。胡亥を殺すことによってその印璽いんじをうばい、それをねたに劉邦と交渉し、関中かんちゅうを二つに割って二人でそれぞれの王になろうと持ちかけるのである。一人前の男がそういうおとぎ話の発想のような手に乗るかどうかという種類の思案は、ゆねに趙高に欠けていた。趙高は若いころ自ら陽物を抜いて宦官になったが、胡亥の少年のころの家庭教師だっただけに、学問はあった。しかし結局は安定した感情を持たないためにその発想と行動は権力への欲望に向かってたえずきりのように直線的に旋回した。
この時期、胡亥は、咸陽の宮殿におらず、郊外にいた。数日前、不吉な夢を見たため占夢せんむ博士という専門職にそれを占わせたところ、東南の郊外を流れる涇水けいすいという川の神がたたっているのだ、という結果が出た。このため身を涇水のほとりの離宮、望夷宮ぼういきゅうに移し、毎日、川に入ってみそぎ・・・をしていた。これによってみそぎ・・・が古代日本や南方だけの古俗ではないことがわかる。胡亥もやっているように、古代中国ではごく普通に行われていた土俗的なぎょうの一つであった。
趙高ちょうこうは、閻楽えんらくという男を養子にしていた。秘事の一切はこの男とかたらった。
趙高の欲望も策略も子供っぽくはあったが、それなりに精密だった。まず「宮廷に賊が入った」として閻楽に吏卒千人を率いさせ、賊を捕えるべく望夷宮に突入させた。
趙高は腹心の閻楽が変心せぬようにあらかじめその実母を人質にとっておいた。このため閻楽にすれば趙高の意のままにならざるを得なかった。ともかくも閻楽は必死に宮門に入り、それをはばんだ者をすべて射殺した。ついに胡亥の座所に至り、まず二すじの矢を射込んだ。胡亥は激怒し、左右を呼ばわったが、たれ一人出て来なかった。彼らはこの異変が趙高のクーデタであることを察し、胡亥を守るよりも、趙高からうける後難のほうを怖れた。
閻楽が剣を引っさげて座所に乗り込んで来た時胡亥は趙高の反乱であることをようやく知った。ただ一人逃げずに残っている侍者の宦官をかえりみて、このような事態になるまでなぜ教えなかった、と力なく責めた。
その宦官が、お教えしなかったからこそ私の生命が今まで無事だったのでございます。もし申し上げていれば、趙湖どのを信ずることのあつい陛下は私をお殺しになったでしょう、と言ったと『史記』にあるが、事実の有無はともかく、胡亥という皇帝と秦帝国末期の大状況およびこの場の状況の本質をこれほど劇的にえぐりだしたやりとりはなく、事実とすれば、物事が極限に達すればこのような小さなやりとりまでが自然に芸術化されるのかというほかない。
このあと、胡亥が閻楽の前に引き出され、命乞いをしたという情景を『史記』は描写的に描いている。胡亥は丞相じょうしょう(趙高)に会いたい、と閻楽に懇願した。閻楽は拒絶した。胡亥は泣くように、せめて一郡だけでも貰い、王になりたいのだが、と頼んだが、閻楽は一蹴いっしゅうしてしまう。胡亥はさらに哀願し、「王が望めないなら万戸侯ばんここうになりたい」ともいい、閻楽がかぶりをふると、ついには妻子とともに黔首たみ(人民)になりたい、とまで頼んだが、閻楽は「丞相が私に命じたのはあなたの死だけだ」といってこれを蹴り、自殺させてしまった。
趙高はそのあと、胡亥の兄の子である子嬰しえいを立て、皇帝とせず、秦王とした。もっとも子嬰は趙高を嫌い、王になる事を受けず、自邸からも出なかった。さらには即位のために必要な宗廟そうびょうでの儀式に出ることもこばんだ。
趙高は多忙だった。ほぼ同時に劉邦と密約を結ぶべく使者を送った。
2020407
Next