~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅶ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
関中に入る (七)
劉邦軍は武関を破ったものの、そのあと無人の野を行ったわけではなかった。いたるところで秦兵の頑強な抵抗にった。
秦は、宮廷や大官、あるいは将軍ほど腐敗し、動揺していたが、民衆がもっている秦人としての民族意識は強かった。その戦意は、劉邦の関中進入でかえってさかんになった。関中こそ秦人の母国だったからであろう。
張良ちょうりょうもこれに驚き、
「秦人も人だと思わざるを得ません」
と、ある夜、劉邦に告白した。秦への復讐だけで生きて来た自分としては、本来、嫌悪と憎悪なしに秦人を見ることが出来なかったが、しかし今となっては彼らもまた人であるという平凡な感想を持たざるを得ない、というのである。さらに張良は、秦人がその大地を愛する事これほどはなはだだしいという事実の上に立って物事を考えねばすべてが崩れるででしょう、とも言った。
張良に作戦は、狡猾こうかつになった。
たとえば、武関は突破出来たが、それ以上に難所は嶢関ぎょうかんという天嶮で、秦はここに幾重にも城壁を築き、鞍部あんぶに城門をうがち、重い扉をとざして侵入者を阻んでいる。
張良は、この嶢関の守将の出身から性行まで調べ上げていた。豪勇だが、出身は士でも農でもない。
商人あきんど野郎(賈豎こじゅ)の子です」
と、劉邦に言った。春秋から戦国にかけ、さらにこの時代から後代をも含めて、国家が農本主義である以上、商人は無用無害のものとされ、また商人間に商道徳も発達しておらず、詐欺漢さぎかん同様に見られているむきがあった。張良もまた侮蔑をこめて「賈豎」と言うのである。さらに、だから利にころびやすい、ぜひ大金を与えてその戦意を買い取りましょう、とすすめた。
劉邦は悪戦することにこりごりしていたからその言葉に従い、口説くどきおとしの使者として、外交の名人とも言うべき酈食其されいいきをやった。守将は大いに喜び、その賄賂まいないを受けただけでなく、
── ともに力をあわせ、咸陽かんようを攻めようではないか。
とまで言い、城門を開いた。劉邦は人が好く、この秦将を幕下に入れようとしたが、張良がおさえた。
だましたんです」
相手がいやしい賈豎の子だから騙しても当方の信に傷がつきません。すでにあの男は大金を食らって城門を開きましたがその士卒はべつでしょう、彼らの多くは関中かんちゅうを守ろうとし、その将に従うはずがありませんから、買い取った城門から突入して秦軍を討つべきです、と言った。
(おやおや)
劉邦は驚かざるを得なかった。
(この男にこんなところがあったのか)
と、品のいい美青年と思っていただけに、あらためて張良の顔を眺めてしまった。さらには、劉邦は張良の策に固定した理論がないことにも目のさめるような驚きをおぼえた。かつて南陽太守たいしゅの降を許し、それだけでなく侯にほうじ、その兵を劉邦軍に加えたやり方をこの嶢関ぎょうかんにも施すのかと劉邦は思っていたのである。そうではなかった。
だまして秦軍の不意をくと、彼らは将も士も狼狽し、嶢関を捨てて咸陽の方角に向かって潰走かいそうした。劉邦軍は軽騎を繰り出し、それを先頭に追撃し、藍田らでん捕捉ほそくすると、徹底的にこれを破った。
「追撃には容赦なさいますな」
張良は劉邦にはげしく言った。張良にすれば、秦兵のあらぎもをこういう戦闘の場でくじいておかねば彼らの侮りを買い、他日かえって抵抗力を強くする、ということであった。
その反面、劉邦に命令を出させ、士卒が人民の財物をかすめたり、生命をそこなったりすることを厳禁した。
── 犯す者は斬る。
という軍令は言葉通りに実行された。罪を犯した兵は軍事の中央に引き出され、容赦なく斬刑ざんけいされた。この風評はたちまち秦の父老ふろうや農民たちの間に走り、劉邦軍への恐怖を大いに薄らがせた。
── ハ必ズシモにくムベキデナイ。
と、父老の中には、そのゆうの者に言いきかせたりする者も出てきた。士卒はそういう里や邑から出ているために、劉邦軍に対する秦兵の敵愾心てきがいしんが次第になまってきた。そこまで張良は読んでいた。
が、張良はかえって攻撃を激しくした。容赦なく秦軍を撃ち、これを次々に破った。当初、関中に入った劉邦軍は、兵数が少なかった。実数は三万ほどでしかなく、張良はさかんに偽の旌旗せいきをなびかせては擬兵ぎへいを張り大軍に見せかけた。兵が少数であるため活動を停止すると正体があらわれてしまう。張良としては、絶えず進撃し突撃し、敵を破摧はさいすることを繰り返していなければならなかった。秦兵が郷党の父老のさとしのためにめだって鋭鋒えいほうをにぶらせてきても張良はなおもこれを撃ち、追い、殺した。
(張良。ええ加減にやめんか)
と、劉邦はその執拗しつようさが不愉快になったが、張良はかまわずに劉邦の手もとから大小の部隊をむしり取っては、次々に秦軍に向かわせ、突撃させた。戦場で叩きにたたいて秦人に敗北感を徹底させる以外に彼らの抵抗心を奪う方法がないと張良は見ていた。こ関中の戦場における張良ほど、非戦闘員に対しては慰撫いぶを軍人に対しては打撃をという両面を徹底的に使いわけた軍略家はいなかった。この方法が、後世の範になった。後世この大陸で革命を成功させようとする多くの者が、この方法をとった。
2020407
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