~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅶ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
関中に入る (八)
この間、影のように戦場を彷徨さまよ っている者がいた。趙高ちょうこうの使者であった。しばしば捕えられつつ、ついに劉邦の軍営に入った。
── 共に両立して関中の王になろう。
と、密使は劉邦に申し入れた。劉邦はふしぎな動物のき声でも聴くように密使の顔を眺め、しかしその申し出には答えず、
── おまえ、腹は減っていないか。
と反問し、軍吏にその男をさげわたしてめしを食わせた。劉邦は、もはや政略の段階が過ぎ、趙高の出る幕など終わったのだということを知っていた。密使は季節外れの蠅の羽音のように「お返事をききたい」と言い騒いだが、軍吏は「劉将軍はお忙しすぎるのだ」といってなだめた。やがて趙高が殺されたという報が伝わった。密使は、追い放たれた。
関中の空を、季節外れの黄砂こうさが舞っている。ときに地をはしって野に微塵みじんのような砂をき、これに巻き込まれると人も馬も黄色い灰をまぶしたようになった。劉邦の陣営では、黄砂の中の景色のように、事態がよくわからなかった。趙高が、本当に殺されたのか。殺されたとなれば、たれが殺したか。
殺した者が重要であった。その下手人が咸陽のぬしになっているはずだが、それは誰なのか。
張良は、懸命に偵知ていちしようとした。
数日して漠北ばくほくに雨でも降ったのか、黄砂が急にんだ。
咸陽から戻った諜者が、
── 三世の子嬰しえいが趙高を殺したのです。
と、以下のことを伝えた。趙高は秦の宗廟で子嬰の即位式の用意をしていたが、肝心の子嬰は自邸を出ず、ただ斎戒さいかいをくりかえすのだった。たまりかねた趙高が肥った腹をほうに包んでみずから子嬰の斎宮にやって来た、子嬰はあらかじめ刺客を伏せておいた。刺客は躍りかかって趙高の厚い背に抱きつき、短剣を突き刺した。が、趙高は虎のような生命力を持っていた。刺されつつもり返って咆哮ほうこう し、刺客をはね飛ばした。子嬰はやむなく自分で長剣をひるがえし、趙高の腹を刺し通し、更に他の刺客が趙高に折り重なり、そののどを掻き切って、ようやくこの化物のような男を死体にすることができた。
子嬰が、秦王になった。
「皇帝」
を称さなかったのは、天下をすでに失い、旧六国りっこくがそれぞれ王を立てている以上、皇帝であることの実がない、としたためであった。この降等は趙高の案であったともいえる。趙高はこの世に生れてみずからを去勢し宦官になったかわりに皇帝を一人つくり、王を一人つくいった。つまるところ権力と言う白刃を素手すででつかんでもてあそびつづけて。そのたぐいの者が、この大陸でこののち長くつづいてゆく歴史の中で終わりを全うした例はほとんどなく、趙高はその系列の歴史の最初をひらいた男と言っていい。
2020408
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