~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅶ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
関中に入る (九)
劉邦りゅうほう関中かんちゅうで戦うこと、一ヶ月以上に及んだ。常に勝ってはいたが、しかし、
(いつ咸陽かんように入れるのか)
と、ときに心細くなった。関中の藍田らんでんで潰走するしん兵を追ってこれを打ったときなど、その西北方の山の向うに秦の王都咸陽があると聞いた。さらに聴くと騎行二日よいう距離でしかないという。
それでも近づけず、敵を追ってふたたび遠くへ去り、最後には咸陽の北方で戦ったりした。
彼がその主力軍を率いてようやく霸上はじょうに達した時は秋もけて十月になっていた。
咸陽は、関中の代表的な河川である渭水いすいのほとりにある。その咸陽の東方に、(灞)水という渭水の支流が流れている。この霸水はその源を劉邦がかつて戦った藍田谷に発し、北流して咸陽盆地に入り、やがて渭水に流れ込む。劉邦はその霸水のほとりに達したのだが、当時、霸上はすでにそのまま地名になっていた。まわりは低い丘陵が波のようにうねり、霸上以外不毛の地で、あたり一帯を土地の者は白鹿原はくろくげんとよんでいた。
この霸上で、劉邦はしん子嬰しえいの降使に接した。
「ほんとうけえ。──」
劉邦は、つい若い頃の馬鹿声をあげてしまったほどに、あっけない事態であった。天地をおおっていた秦帝国も、最後になるとこの程度の戦いで崩れるのであろうか。このことをいかほどに自問しても事態が実感として迫って来なかった。
── 子嬰を殺せ。
という意見が、諸将の間で噴きあがるように出た。戦場の殺気が残っているということもあったが、秦はそれほどまでに憎まれていた。
そのための軍議が、路傍の民家でひらかれた。
劉邦には、秦王への憎悪も感傷もない。あるのは利害についての大まかな計算だけだったが、諸将の気が立っている時にそれを早々に口にするわけにもゆかず、大きな顔を上げたまま薄ぼんやりすわっていた。
(張良のやつ)
劉邦には、おかしかった。
(ほおずき・・・・のように顔を赤くしている)
子供っぽい、その程度の感想が劉邦の心中を去来しているだけである。
劉邦が可笑おかしがったように、張良は赤い顔をせて無言のままでいた。後頭部が火にあぶられるように熱く、座に堪えられないほどだった。
(殺すべきだ)
と、思っている。劉邦の配下は多士済々せいせいだが、何人かをのぞくほかはあぶらぎった栄達欲のかたまりを戦袍せんぽうにつつんでいるような男ばかりだった。張良は貴族の出ということもあって、そういう欲望を生まれる以前に置き忘れたようなところがある。その情熱は、復讐という奇妙な執念にかたよってしまった。ただその一事をげるために少年の頃を送り、一度は博浪沙はくろうさにおいて始皇帝しこうていを車ごと砕こうとして失敗し、その後は逃亡と潜伏に歳月を送った。始皇帝こそ殺しぞこねたが、いまその孫の秦王の軍隊をことごとくつぶし、その人物がこうを乞うところまで漕ぎつけた。一議もなく殺すべきであった。
(殺さねば、今までの辛苦はなんのためのものであったのか)
張良はそう思った。
彼はただ秦への復讐のために劉邦をたすけて来たわけで、栄達のためでも劉邦のためでもなかった。
が、開封かいふうから南下して以来、劉邦の謀将のおうな仕事をやりはじめると、仕事が張良を少しずつ変えはじめたような気が、張良自身しないでもない。いわば劉邦を材料にして戦いを構想し、実施し、その結果を見るという仕事は質として純粋な才能というものに属していた。才能は表現を求めてやまないものであり、張良はその面白さを知ってしまった。となれば、張良はここで身をひいて劉邦をほうり出してしまうわけにもゆかず、その仕上げまで見とどけたくなっている。
劉邦をたね・・にさらに物を表現するとすれば、今が終わりではなった。項羽こううがいる。劉邦とは同じの将軍とはいえ、このまま両雄が並び立つはずがなく、いずれは確執かくしつがおこり、どちらかがたおれるまでそのことが果てるはずがなく、いわばこの関中を制したことは項羽との戦いの出発点になるはいはずであった。
2020408
Next