~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅶ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
関中に入る (十)
となれば、秦王子嬰しえいを殺すべきでない。
(子嬰を生かし、秦の父老ふろう安堵あんどさせ、彼らの信望を得る必要がある)
このさき、劉邦が関中を保てるかどうかはわからないが、原則でいえば保つべきであった。関中という土地そのものが巨大な城廓で、食糧も豊富であり、ここを拠点とする限り天下を得ることも困難ではない。ともかくもこの地における人気を劉邦は得ておくべきであった。そのためには、子嬰は殺せない。
が、張良はそう発言できるほどに感情が整理されておらず、いたずらに顔をせて無言でいるのみであった。
「小便をしにゆくぞ」
劉邦は大声で左右に言い、座を立った。立ったのは、退屈気味だったということもある。戸外に出ると、多数の護衛何事かと思って身辺を囲んだが、劉邦はなつめの木の方に行き、おびただしい尿を地にながした。
席に戻ると、すでにしゃべっている者がいた。酈食其れきいきで、この能弁家は不殺論だった。
「よかろう」
と、劉邦はその説を採用した。
酈食其のいう不殺の理由というのは、懐王かいおうがこの劉邦を関中に派遣されたのは人に対して寛容であるということを買われたからだ、ということであった。かつまた敵王がすでに降伏しているのになおこれを殺そうというのはめでたい行為ではない、とも言った。ひどく大ざっぱな言い方だが、物の道理をつかんでいる。
が、刑殺論者は不満そうだった。敵王というものは厄介やっかいなもので、これを生かしておいては将来秦を再興しようとする者達の核になってしまう。殺して禍根を断たねば扱いに困ることになるだろう、というのがその趣旨だったが、劉邦はそういうこともわかっている。秦王子嬰はいずれ殺される運命にある。しかしこの劉邦が手をくだして殺すことはない、懐王か項羽に任せればよいではないか、と思っていた。しかし口には出さなかった。
子房しぼう(張良)さん、あんたはどうだ」
と、劉邦は念のために聞いた。
張良は一揖いちゆうし、お言葉のとおりであると存じます、と言ったから劉邦は大いに喜び、
「子嬰を生かしておく」
と、軍議を閉じた。
翌日、秦王子嬰は霸上に近い軹道しどうという小さな宿場まで来た。降者として白馬にかせた白木の車に乗り、宿場に着くと車から降りて、劉邦を拝した。首から胸へくみひもがかかっており、その先端に白木の箱がぶらさがっていた。箱の中には二世皇帝から相続したせつが入っている。璽は皇帝の印であり、符は皇帝が使者を出す時に用いる鋼製の割符わりふで、節も、その用途は符に似ていた。皇帝が用いる印形いんぎょう化された手形である。この三つが、皇帝が秦帝国の官僚を動かす絶対権の行使のための道具で、これを敵将に渡すことは自分は皇帝から降りたということの具体的なあかしになる。
劉邦はこの三つを受け取ったが、私有できるわけのものではなく、はるか彭城ほうじょう(江蘇省)の地にある懐王に送り届けることにした。
子嬰の身柄は、軍中に置くと士卒がなにをするかわからないため、劉邦は刑吏にあずけた。
2020408
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