~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅶ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
鴻門の会 (一)
漢書かんじょ食貨志しょっかし のくだりを眺めていると、劉邦りゅうほうが関中に入った翌年のこの地の飢饉ききんのひどさは、想像を絶するほどである。
古来、沃野よくや千里といわれていながら、食用穀物がわずか五千石しかれず、人が人を食い、餓死する者が人口の半分に及んだ、とある。
中国ではすでに秦漢しんかん以前から比類ない文明を築いた。しかし食人の風があった。とくに飢饉や戦乱にあっては子をえあって食い、あるいはいちに商品として人肉が出た。

劉邦りゅうほう関中かんちゅうに入ったのはその記録的な大飢饉の八か月前で、しかしながら予兆があった。すでに関中は飢え、家々の食糧の貯えはとぼしかった。
その上、劉邦軍が入り込んでいる。劉邦は全軍を霸上はじょうに集結させて咸陽かんようの市街に入れず、いっさいの掠奪を禁じてはいるものの、軍隊はその成立の本質からいって流賊である以上、士卒のはしばしの行為までは取り締まれなかった。さらには軍としての糧食調達があり、それらはすべて関中の農民たちの貯えを巻き上げことで賄われた。
劉邦はすでに、
「関中王」
ろしての気分でいる。戦禍と飢饉であえぐ関中にやって来て、にわかに王としてその田園の上にのっかっているのだが、これ以上収奪すれば、農民たちは関外へ逃亡せざるを得ず、逃亡されてしまえば王権などあって無いに等しい。劉邦は元来、思慮がとりとめもないところがあったが、この一点においては、生い立ちが農民だっただけにたれよりもよく知っていた。
しんは、法で治めた。その法は煩瑣はんさできびしく、秦政権そのものが罪人の製造機械のようなところがあった。この大陸の住民たちは、自然の循環のままに身をゆだねていることが好きで、元来法という人工の大網の中で拘束されることを好まなかった。法治というのは、食糧の豊かさと平和とを前提とする。兵乱と飢饉と言うせっぱ詰まったこの状況の中では生存のためについ法を犯さざるを得ず、そういうことでいいちいち警吏にえりがみをつかまれては生きてゆくことが出来なかった。劉邦には、この機微きびがからだでわかった。
彼は関中をおさえた翌月、すべての地方の父老うろうたちを呼び集め、
「秦の法は、ことごとく撤廃する」
と、宣言した。さらに、
「法は、三章とする。すなわち人を殺す者は死刑、人を傷つける者、あるいは人の物を盗む者は、それぞれ適当な刑に処する。それだけじゃ」
と言った。掠奪の禁止と右の秦法の撤廃と法の簡素化ほど劉邦の関中における人気を高めたものはなかった。
この大陸の社会は、巨大な先制権力を成立させるためのすべての条件をもっている。つまり政治論がなによりも重要な土地であり。おなじ意味で善玉を待望する土地でもあった。農民にとって王権の害は、ふつう流賊の害よりはなはだしい。より害の少ない王権を宣言する者が善玉であった。その意味では劉邦は注文どおりの王ではなかったか。
劉邦は、そういう呼吸はすべて心得ていた。
「わしは秦の害を取り除くために来たのだ」
とも言った。しかしながら劉邦は後年、帝国を形成してゆくときに「法三章」の約束は捨てた。この大陸で小地域ごとに封建国家があった時代 ── 春秋戦国時代 ── は法よりも慣習で治めることが出来たが、天がおおうかぎりの大地を統一して帝国をつくるという途方もない作業をやる場合、その奇跡を最初に演じた秦帝国のやり方に従わねばならぬことが多かったのである。
劉邦は、それよりも以前に、秦の吏員をすべて許し、その行政組織を使って難なく民治の継続に成功した。この点でも、郷村の父老や吏員たちを安堵あんどさせた。
ひどく即物的な人気取りもした。
たとえば、劉邦の新政に喜んだ父老たちが、つぎつぎに牛や豚を運んで来て献上しようとしたが、劉邦は断った。ことわるについて、いちいちじかに会い、
「秦の父老よ」
と、ゆっくり言った。
「わが倉庫に積んだ軍糧は多くはないが、しかし士卒は飢えるに至っていない。郷村の方が飢えているはずだ」
この言葉は電流のように関中の隅々まで伝わり、郷村を喜ばせた。彼らは、想像以上に軽い王権が劉邦によって成立するかも知れない、と期待した。劉邦も、その期待の沿った。
父老たちの劉邦への期待は大きくなり、
── もし沛公はいこう(劉邦)が秦王(関中王)になってくれなければどうしよう。
というところまで、人気が」高まった。
この時期になると、関中の吏員も父老も、軍の内情をよく知るようになっていた。楚のかい王が、関中にいち早く入った者を関中王とする、という約束をしたことも知っていたし、劉邦の競争相手である項羽こううが楚軍の事実上の主権者であり、項羽は北方の野で章邯しょうかんと戦ったために関中入りが遅れていることも知っていた。さらには項羽がゆくゆく関中に入った後、主将が合議して(というより項羽自身が決めて)はじめて劉邦の関中王であることが決定するということも知っていた。以上の理由で劉邦の地位がきわめて不安定なものであることも、地元の連中はよく知っていた。
劉邦は、毎日のように、
── あなたさまが関中の王になってくだされば。
という言葉を聞かされた。
劉邦は元来が人のおだてにに乗る男であった。そういう性格の男にとってこれほど耳に快い言葉はなく、ふと夢ではないかと左右を見まわすほどだった。ほんの三年前まで生まれ故郷の農民から嫌われ、実家の長兄から無視され、あによめから露骨に厄介者あつかいにされていた人間が ── さらには秦帝国のお尋ね者として沼沢しょうたくに隠れて流盗を働いていた男が ── 今は秦の故地の人々から王になってくれと哀訴するようにして頼まれているのである。これがうつつと思えるか、と劉邦はときに卓を叩いて自分を怒鳴りあげたいような昂奮をおぼえた。
20200408
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