~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅶ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
鴻門の会 (三)
項羽こうう軍の進撃路は、ほぼ現在の隴海ろうかい鉄道ぞいと言っていい。経路沿いには黄河こうがが流れ、都城がつらなっており、関中かんちゅうに対する大手門攻撃の進路というべきであった。項羽はいたるところで秦の都城を攻め潰し、むような勢いで西進した。ついに函谷関かんこくかんに達したのは酷寒の十二月である。かい王の命を受けて劉邦と共に彭城ほうじょう(のちの徐州)を出発したころから数えると一年と三ヶ月、しん章邯しょうかん将軍を降してから三ヶ月後に、ようやく秦の根拠地の関門にたどりついたのである。
函谷関は、のちべつな場所に移された。
この時代のそれは後に古関こかんと呼ばれる位置にあり、まわりは樹木も少なく、岩と乾泥ともつかぬ黄土層の断崖や隆起で囲まれ、一道が辛うじて通じていた。関所は頑丈に要塞化され、全体があたかもはこの中にある観がした。
項羽は、明日こそ函谷関に達するという午後、先鋒軍から伝令があわただしくけて来て、劉邦はすでに関中にあり、その兵がかたく函谷関をとざし、城頭に無数の赤い旌旗せいきをたなびかせて外来軍を拒絶している、という旨のことを報じた。
項羽の到着は、劉邦に遅れること二ヶ月であった。
このになって関中の異変を知るなど、項羽軍が情報に対していかに鈍感だったかということになるが、逆に、関中という天嶮でもってとざされた地理的特殊性がそれほどにきわだったものであり、関中の状勢が中原にいかに洩れにくいかという事が、この一事でも理解できる。
項羽は激怒したが、しかし半ば報告を信じなかった。
(まさか)
という気持ちがあった。項羽が本営を前進させたのは、他人ひとの言葉よりも自分の目でものを見ることによってはじめて物事を認識するというたち・・だったからである。この性格はしばしば項羽に利し、ときに致命的な事で項羽に不利をまねいた。函谷関に近づくと道が狭くなり、
殆不見日ほとんどひをみず
という地形になってゆく。そのわずかな天が夕日で赤くなったころ、天よりも赤い旌旗の群れが城頭に翻っているのを項羽はたしかに見た。赤は劉邦軍の色であった。
「あの百姓めが」
項羽は、うめいた。
「破って通るのみですな」
かたわらで、謀将の范増が、老い錆びた声で言った。
項羽はこの事態を予想もしていなかった。
彼は農夫あがりの劉邦をばかにしきっていたし、その戦下手と臆病さについては目の前の冬枯れの小枝の数以上の実例を知っており、あの劉邦が天嶮と秦軍を破って関中に入るなどは夢にも思っていなかったと言っていい。
── あんなやつが関中王になるとは。
そんな事態が許されることではなかった。軍は元来、おじの項梁こうりょうと自分がつくったものであり、劉邦など、雑然とした小部隊を率いて途中から陣借りしてきた男ではないか。
憎悪は劉邦にむけられたが、しかしそれ以上に後方の彭城にいる懐王に対し、殺してその肉をくらいたいほどのものを感じた。懐王が自分に直線経路を許さず、はるか後方の秦軍と戦わせたために遅延した。そういう繰り言が、この結果を眼前に見てはじけるような怒りに変わった。
「当然だ」
と、項羽は范増の攻撃論に賛成し、翌朝、この狭い場所に大小の飛び道具と人数を集中し、火を噴くほどに攻めたてて関門をぶち破ってしまった。
函谷関は、入ってからの方がさらに道幅がせまく、わずかに一車を通す程度である。そのひとすじのみちを両側から山壁が人馬を押し潰すようにしてり立ち、文字どおりのはこの中を行くようであった。
2020/04/10
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