~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅶ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
鴻門の会 (四)
項羽軍は、実数十万と言う大軍である。函谷関から潼関とうかんという関中の咽喉部までふつうなら徒歩一日半の険路だが、人馬がおびただしすぎるために二日半要した。
潼関を出ると、長い隧道ずいどうから出て来たようなにはじめて視界がひらけ、西北遠く沃野よくやがつらなるのを見る。見た時、士卒たちは見た順次に歓声をあげた。目の前に天府てんぷの地といわれる関中の野がひろがっている。
「劉邦は、霸上はじょうに布陣している」
という情報を、范増は得た。
さらに次々に入って来る情報は、濃密な劉邦像を作り上げるのに十分だった。
── 劉邦を攻め殺す。
と、范増はその一点に方針を絞って余念がなかった。項羽は劉邦など秋の戸外に飛ぶのような男だと思っているが、范増にとっては逆だった。劉邦は人の意見をよく聴き、たくにに採択している。あの男の前身がはいの町の食いつめ者に過ぎなくても、そのふしぎな器量でもって、ときにその能力は項羽に百倍することがあるかも知れない、と范増は思っていた。
「劉邦はおそろしい男です
范増は、騎行する項羽に馬を寄せて、言った。
「羽織の町にいた時、あの男はひとがへきえき・・・・するほどに女好きで、欲深男だったときいています。しかしいま、関中に在りながら咸陽かんようの金殿玉楼を封印し、秦の宮殿に住む美女たちにも目もくれず、ことさら人気ひとけの少ない灞水はすいのほとりの台上に本営を持ち、くそまじめにとり澄ましているというのは、天下を望む大望があるからです」
「愚かな奴だ」
蚊が鳥になろうとしてもできる話ではない、と項羽は鼻を鳴らした。
「一気に攻め、一気に劉邦を殺すべきです」
范増が言った。
(この老人は、くどすぎる)
項羽は、わずらわしくなっている。劉邦ごときを攻め殺す話を、なにも息を荒げて言う必要はあるまい。
「口実は?」
項羽は言った、名分がる。劉邦は今のところ友軍の将であって、敵ではないのである。
「口実?」
范増は、しぼりあげたれ手拭のような笑いじわじわをつくってから、口実など作ればよろしい、要は劉邦を殺すことだ、と言った。
「第一に、函谷関を兵でかためて、楚の上将じょうしょうであるあなたの入関おこばんだ。これだけでも劉邦はころされる理由が十分でしょう」
と言った。
さらにその上、別な口実がむこうから飛び込んで来た。
この夕、劉邦の陣営から密使を范増のもとによこした者があり、その百姓姿の者を捕えてみると曹無傷そうむじょうという劉邦軍の左司馬さしばが出した使者であることが分かった。
「項将軍にお味方したい」
と、密使は曹無傷の口上を低い声で述べた。曹は、項羽軍が自軍の五倍もあることを知り、劉邦の運命を見限ったのである。曹と同じ心境の者が、当然劉邦軍には多いであろう。曹の密書の中に、
── 劉邦は将軍をさしおいてすでに関中王の位にき、咸陽かんようの珍宝をひとり占めにしております。
という意味のことが書かれていた。讒訴ざんその目的は項羽の勝利後、侯にあるつきたいということだった。范増はこの密使を陣営にとどめ、項羽に報告し、劉邦はこの罪一つで車裂きにされてもよろしゅうございましょう、と言った。
項羽は、劉邦と会おうとはせず、使者も送らず、無言のままその大軍を展開した。新豊台しんぽうだいと呼ばれている台上の一角に鴻門こうもんという高地があるのに目をつけ、ここに本営を据え、十万の大軍を霸上の劉邦軍に対し翼を広げたように布陣した。布陣が完了したのは、日没前である。劉邦軍との距離はわずか二十キロにすぎなかった。
「明朝、士卒に大飯を食わせろ」
と項羽の言葉どおりの命令が、布陣した夕刻、諸隊に発せられた。大飯を食わせろ、というのはその直後に攻撃前進がはじまるというのが慣例で、諸隊は大いに緊張した。だけでなく、劉邦軍をぶち破って咸陽に突入し、つかみ取りに財宝を得るという昂奮もあり、兵気は沸き立つようにさかんだった。元来、項羽は掠奪を禁じなかった。これを禁じれば士気が大いに沈滞するということを知っていたのである。
夜に入ると、項羽軍の軍容はいよいよ華やかになった。数万の篝火かがりびが地のつづくかぎり輝き、空の雲気うんきをあかあかとがした。
2020/04/11
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