~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅶ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
鴻門の会 (五)
劉邦りゅうほうは、きもをちぢめてしまった。項羽こうう軍が函谷関かんこくかんを破って関中かんちゅうに入って以来、劉邦は一瞬もやすまったことがない。本来なら劉邦自身が函谷関まで出迎えに行くべきところであったが、不覚にも逆に門をとざし、弓矢を交えてしまった。
(なんというさかんな篝火だ)
今まで運が良すぎた。どうやら年貢の納め時が来た、と歯の根の合わぬ思いでその光景を見た。遁げ出そうかと思った。身一つで遁げるというのは劉邦の得意芸であったが、それ以外にこの窮地を脱け出す方法はない。
劉邦は張良ちょうりょうを思い出した。
関中がおさまってから、あの戦争屋の張良は不要になった。このたりが劉邦の癖であった。必要とあれば本心から相手に熱を入れ、その足をめろと言われれば懸命に舐めてしまうような態度を示すのだが、必要でなくなるとあっさり忘れてしまうのである。冷淡とか功利的とかご都合主義とかいうことではなかった。劉邦の性格におけるこの機微きびは説明しがたく、あるいは陽気さを帯びつつ欠けたもの、もしくは一種の無邪気さというべきものだった。この無邪気さがあるためにたれもが劉邦のその面を許した。
しかし張良自身は、劉邦のそういう面は好まない。その冷淡さから自分の神経が無形の被害を受けそうになると、敏感に察し、
(この男にとって自分は必要でなくなったのだ)
と、みずからに言いきかせ、影のように静かに身を退き、劉邦の帷幕いばくに近づかなくなった。
しかし今は再び張良を欲している。
日没後、劉邦は火がついたようにして張良を探させた、すぐには見つからなかった。
張良は、形式上、かん王の兵を預かるという形で、自分に直属する百人ほど部下を持っていた。その部下たちはみな亡韓の遺民の子弟たちで、彼らは他の流民や流盗あがりの諸隊とは異なり、兵に向かないほどにおとなしく、主として張良のために諜報ちょうほうの仕事に任じていた。静かな部隊ではあったが、しかし張良を見ること神に対するようであり、張良が下す命令のためなら死をかえりみなかったため、荒くれた他の諸隊よりもむしろ戦場では強かった。
彼らは、張良を懸命に守っていた。劉邦の使いが来た時も、
「すぐには申し上げられません」
と、居場所を教えないほどであった。自分たちは張良に仕えているのであってその上の劉邦とは直接の縁はないという明晰な論理をもった態度であった。さらには本当に劉邦の使者かどうかそういうことさえ一度は疑ってみるという態度でもあった。
張良は、左右の数人にだけ居所を明かしている小屋の中にいた。小屋の外を護衛兵に固めさせながら、一人の初老の男に会っていた。
男は半白のちぢれ毛を無造作にまきあげてきんでおおい、人のように落ちくぼんだ眼窩がんかをもち、その底から小さすぎる目が、偏執狂のように光っていた。無口で、ときどき返事のかわりに笑う。笑うと、人変わりするほどに清潔な感じがしたのは、歯がとし不相応にしろいせいでもあった。
項羽のおじ・・ である。
項羽には、彼の育ての親であり、ともに兵をあげた故項梁こうりょうがいたが、しかし本来亡の名族で血縁が多かったため、嫡庶ちゃくしょとりまぜて伯父、仲父、叔父、李父が幾人かおり、いとこも多かった。それらの何人かが挙兵後、傘下さんかに加わっていた。
張良と密会している男は、項羽の亡父の末弟であった。項羽の陣中では、
項伯こうはく
と呼ばれていた。名はてんである。あざなは別にあったのだが人々が伯々と呼ぶために ── 季のおじを伯と呼ぶのは変ではあるが ── 面倒になってそれを自分の字とした。たしかに物にこだわる性格であったが、一面、そういう無造作さも持っていた。ともかくもせたその体つきの全体の印象としては、小さな金槌かなづちで釘を打ち込むような激しさと単純さと歯切れの良さを感じさせた。
項伯は、不良少年のあがりだった。
楚が亡び、元来、項家の一族がしんににらまれていたために一族が四散し、項伯も各地を転々として流浪せざるを得なかったから、尋常な半生を送れるはずもなかった。人を殺したこともあった。
かつての戦国の名家の子で、秦の世になって流亡した、という点では張良の前半生も似ている。張良は博浪沙はくろうさで始皇帝を搏撃はくげきしそこね、遁走とんそうして流浪し、名を変えて下邳かひに住み、そこで俠客のような暮らしをしていたという点でも、項伯に似ていた。ある時、殺人の罪で追捕ついぶされていた項伯は下邳に入り、人の紹介で張良を頼った。
「命に代えても、あなたを守りましょう」
張良は約束した。
張良にとって項伯は親しいというほどの仲ではなかった。これをかくまうことは利害によるものでも情誼によるものでもなかった。
── 自分にはきょうというものがある。
という自他へのあかしというべきものであった。それだけに、この行為は激しかった。
俠という。
この理論は、男伊達、世話好きといったようなものではなく、後の日本にも奥州にも類似した精神が見当たらない。立場は違うが、質としては、十六世紀のイエズス会の殉教精神に激しさだけは似ている。
2020/04/11
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