戦国という乱世は、すでに述べたように、古代的な商品経済の隆盛時代であり、活発な思想の時代でもあった。さまざまな要素が入り混じって、中国史上、類がないほどのあざやかさで個人を成立させた。その後、このあざやかさがおそろしいほどの勢いで褪色するのだが、ともかくも戦国から秦にかけて、王朝は頼むに足りず、むしろ秦時、絶対権力が餓虎がこのように人を害そこなってきたため、個人がたがいに横に結んで守り合わざるを得なかった。いったん結べば、すべての保身、利害の計算を捨てて互に相手を守り合うという俠の精神が作動した。俠には理屈がなく、それそのものが目的だった。中国にあってはその俠の精神と習俗ばかりはさまざまに形や質を変えて後世まで伝えられ、この大陸の精神史における別趣の塩分となっている。
ともかく張良は別の友人から項伯の保護を頼まれた。繰り返しいうようだが、項伯が気に入ったためにそうしたということではなかった。いわば不見転みずてんの俠心といってよく、俠の本質もそこにあった。
しかし保護してから項伯が好きになり、項伯への保護に熱意が加わった。
その後、世が乱れ、項伯は項梁軍に従い、その死後、おいの項羽軍の一将として戦線を転々した。
張良が劉邦軍の中にいるということもほのかに聞いていたが、下邳以後、互いに隔たることが遠く、音信もなかった。
項羽軍が関中に殺到して新豊台しんぽうだい
に布陣した時、項伯は、明朝、自軍が霸上はじょうの劉邦軍を総攻撃することを知り、
(張良の俠に酬ゆべき時が来た)
と思った。
(このままでは張良が死ぬ)
と、項伯は判断した。あとは、いっさいへの顧慮がない。項伯もまた俠の証をせねばならない。
彼は、夜、軍営を脱し、駈けた。一騎だけで駈けとおし、張良の陣地に走り込んで、ひそかに会ったのである。
「私と一緒に逃げよう」
と、項伯は多くを言わず、その言葉を繰り返した。言う必要がないほどに劉邦軍の敗北はわかりきっていたし、張良が敗死することも明白であった。逃げよう、と項伯は言う。逃げて項羽軍に身を寄せよとは言わなかった。張良がそういう男でないことは知っていたし、自分自身も裏切りをすすめたくはなかった。項伯自身、項羽に内緒で敵と接触している以上、これについて事態がこじれれば身分を捨てて張良と一緒に逃げる、というところまで思い切っており、そういう思いきりもまた俠という精神に属する。
「あす、総攻撃か」
張良にとって、この情報の衝撃の方が大きかった。逃げる、逃げぬについては、張良ははっきりと立場を述べた。
「自分は韓を復興しようと思い、韓王を立て、それに仕えている。その再興のために劉邦に身を寄せている以上、逃げることは不義である。ともかくもあなたが教えてくれた明朝の総攻撃を劉邦に告げたい。かまわないか」
「かまわない」
項伯は言った。この場ではただ俠のみを遂とげるという項伯の錐きりのように鋭い目的からいえば他のことはすべて余事であった。それが項羽軍の機密を洩らすという結果にはなるが、そういうことは、張良への恩返しという個人の大事からみれば塵埃ちりあくたほどに小っぽけな雑事にすぎない。
「では、あなたは証人として沛公(劉邦)の陣営まで同行してくれるか」
「かまわないとも」
同行することが、どういう意味を持ち、どんな結果になるかは、項伯の知ったことではない。
すぐさま両人は騎走して劉邦の本営の到った。まず項伯を別室で待たせ、劉邦に謁えつし、あす項羽軍が総攻撃を仕掛けてくる、と伝えた。
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2020/04/12 |
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