劉邦は、口を開けてしまった。
体中の筋肉が弛んでしまったようで、下あご・・が上へあがらなかった。
「あす、か」
項羽こううという男の自分への怒りがまさかそこまで苛烈かれつであるとは思わなかった。
「いったい、たれが函谷関かんこくかんに兵を送るという策をたてたのです」
「?生そうせいだ」
つまらん野郎だ、というのみで、さすがにいつもこの部屋を掃除する男だ、とははずかしくて言わなかった。張良ちょうりょうは劉邦の顔を見て、この人はものが欲しいとなると、子供のようになる。おそらく当人自身が兵を出したのだろうと察した。
「函谷関をとざして項羽を挑発した以上は、戦って勝てるという自信がおありだったわけですな」
張良は劉邦のそういうところが嫌いではなく、皮肉でなくそう言った。さらに、いかがです、今も勝てるおつもりですか、と聞くと、劉邦は身も世もないといった風情ふぜいで、
「とても」
と、声が小さくなった。頼む、とも言った。なにかこの窮状からのがれるてだて・・・はないか。
張良にも、策などない。ここに及んでは項伯こうはくにすがり、彼に平和の仲介人になってもらうしかなかった。劉邦は項伯と名を聞き、驚いてしまった。卿あなた
とどういう関係がある、と息をはずませて聞いた。張良は、昔の一件を言った。
(救われた)
と、劉邦は思った。項伯が、むかし張良にかけられた恩に対し、これまでして酬むくいようとする人物なら、自分にも何かの役に立ってくれるだろう。ただし項伯の俠きょうは、張良で行き止まりである。その点、劉邦もわかっている。このため自分もその俠の仲間に加えてもらおうと思い、とっさに儀式を思いついた。劉邦は本来任俠道の出であるために、その種の儀式はよく知っている。
「子房しぼう(張良)よ、教えてくれ、項伯どのはあなたより齢上としうえか」
「上です」
「私よりも?」
この大陸では、年齢の秩序は儒じゅ教の普及以前から厳乎げんことしてある。
「若く見えますが、実際は五十に近いかと思います」
「すると、私より兄だ。わが兄者あにじゃとうことになる」
劉邦は項伯の意思にかかわりなく、しゃにむに義兄弟の契ちぎりを結びたかった。義兄弟の契りを結べば、義は血よりも、それが義であるがためにつよい。項伯は死を賭としてでも劉邦を守ってくれるに違いないと思った。
張良は別室に戻り、沛はい公に会ってくれ、と項伯に頼んだ。さすがに項伯はおれだけは勘弁して貰いたい、と言ったが、張良が、
「それだけが、おまも私を救ってくれる唯一の道だ」
と、いったために、腰をあげざるを得なかった。
劉邦はすっかり衣服をあらためていた。
項伯が部屋に入ってまず驚いたことに、初対面の劉邦がはるかに下座で拝礼し、次いで膝ひざをもってにじり進んで項伯の手をとり、上座にすわらせ、兄として礼遇したことだった。儀式はすでに始まっていた。
やがて大杯が運ばれて来た。
(義兄弟になるということか)
項伯はやっと気づき、念のために張良のほうを見た。張良は恋をする少女が目でもって相手に情意を訴えるように、項伯に対し無言で頼む、と訴えた。項伯は押し切られた。やがて張良は侍立じりつの席から立ちあがって、両人のために酒を注ぎ、媒介なかだちの役をつとめた。項伯はその杯を干した。
(これで劉邦と義兄弟になってしまった)
思いもかけぬ事態の変化というべきであった。項羽軍の一将が、総攻撃の前夜に敵将と義兄弟になってしまうなどは、どういうことであろう。が、項伯は全体のことなど深く考えない男で、ひどく透き通った表情をしてさらに数杯の酒を劉邦と共に干し、たがいに杯の底を見せ合って微笑しあい、その所作ごとに、たがいの寿を祝った。
あとは、弟として劉邦は自分の本意をのべた。
「弟ていは、項将軍から誤解を受けております」
自分はたまたまさきに関中かんちゅうに入ったが、この地を専有するつもりではなく、項羽殿の入るのをひたすら待ち、そも命に従おうと思っていた。秦しんの官物を私有しなかったのもそのためであった。と言った。さらに項将軍に献上すべく吏民の戸籍を記録し、府庫を封印し、自分自身も中を見ていない。
次いで函谷関に警備の兵を出したのは流賊が入るのを防ぐためであった、と言い。
「それらのことがことごとく裏目に出て思わぬ誤解をうけるもとになりましたこと、これではこの劉邦は死んでも沁みきれませぬ」
と、言った。
(これは、わしに命乞ごいをせよということだ)
項伯は思った。項伯も、劉邦の言葉がそのとおりであるかどうか疑わしく思っている。しかし義兄弟の契りを結んだ以上、事情の説明の裏側の真否などどうでもよく、要は頼まれた・・・・ということしかない。要するにこの義弟は自分のこの言葉を項羽に伝えてくれということであろう。
「心得た」
項伯は言った。
「私は、今夜、帰陣して羽う(項羽)どのに伝えてみる。しかし羽の性格から見て、あなた自身が羽の前に出、あなた自身の口から出る言葉を聞きたがるだろう。明朝、出来るだけ早く鴻門こうもんの本営へ来られよ」
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2020/04/12 |
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