ただ、いま車に揺られている劉邦は、自分の肉体から魂魄が半ば離れはじめているような感じもする。
(なにか、挙兵以来、宙に浮いてここまで来たようだ)
越し方を思うと、煮えたぎった油の上に浮游しているなにかのようにしか自分が感ぜられず、つかの間にこういうはめ・・になったしまったような感じがしないでもない。
(川波が奔はしるままに浮かんで来てような)
と、魂魄が思ったのか、劉邦が思ったのか。あおのあげくの果てが死であり、それが、眼前にせまっている。
── 躍らされてしまった。
とも思った。数万、数十万の人間どもに劉邦はかつぎあげられてその人津波ひとつなみの走るがままに劉邦は宙を飛んでここまで来たようでもあった。踊らされたといえば楚その懐王かいおうに踊らされたということもあるであろう。懐王は項氏によって立てられた王にすぎず何の実体もない。武力もなく、家来もなく、項氏がその気になれば縊くびり殺すことも出来たb。懐王とその側近はそれを知っており、何を仕出かすか分からない項羽を懼おそれ、そのためにわざと項羽を北方の秦軍にあたらせ、小部隊の劉邦を指名して西進させた。関中に早く入る者を関中の王とするということを懐王が宣言したのは、懐王自身の恐怖心理がつくりだした方針だった。劉邦に功を立てさせることによって項羽の毒を制しようとしたことはまぎれもないことだったし、そういうことを思うと、劉邦とは何であったか、懐王の傀儡かいらいにすぎなかったのではないか。
劉邦は、死への怖れの中でそう思っている。
(かといって、今までおれが踏んで来た道以外に、死をまぬがれる方法があったか)
唯一ある。
今となればその選択は遅いが、早くから項羽の忠良な一将に甘んじておくという方法だった。
(しかしそれは)
と、劉邦はみずからの無能をかえりみて苦笑する思いだった。麾下きかの部将というのは能力が要る。
臆病でいくさ下手で身動きがにぶく、ろくに文字も知らない劉邦が、項羽の追い使う一将になれるはずがなかった。
劉邦は、われながら自分が不思議な存在だと思った。彼自身のもとに流民が集まってしまったのである。かれこそ食わせてくれるという噂が四方にひろまり、二乗三乗というふうに流民がふえにふえた。多くは蕭何しょうかの功績であったが、それらを劉邦がともかくも食わせたことは、まぎれもない。そういう流民のための食わせる象徴のようなものが劉邦であったし、このために項羽とも対立した。項羽にとっては、劉邦が関中に早く入ろうが入るまいが、抹殺すべき存在だった。
劉邦は、それらが、よくわかっている。
「張子房ちょうぼうし」
劉邦は、力なく張良に言った。
「わしは沛の町でごろついているだけの一生でよかったかも知れない
「── それは」
張良は、なぐさめるべき言葉をさがした。やがて気の毒そうに劉邦を見て、
「天命でしょう」
と、言った。そう言うしかなかった。張良は劉邦について抜け道を考えてみたが、どう思案をめぐらしても項羽に殺されるべき存在だった。
天命であればこそ、ときに抗あらがい、ときに泣き、ときに屈し、ときに戦って、もがきながら項羽に立ち向かって行く以外になく、このたびはなりふり・・・・かまわずに項羽に哀訴すべきであった。自分がいかに忠良であるかを述べ、なりふりかまわず号泣してもいいから相手の惻隠そくいんの情じょうに訴え、その情を動かすしかあいあえいません、と張良は言った。
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2020/04/13 |
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