~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅶ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
鴻門の会 (十一)
黄土大地の上に在る鴻門こうもんの地形は、黄土という粉状土壌が水蝕作用によって無数に陥没しぞこねた部分が低い城壁のように複雑な壁を作り、巨大な天魔の爪でひっかきまわしたように迷走している。項羽こううの本営はそれらの壁をそのまま利用できる一角にあり、この点、自然が項羽のためにわざわざ野戦用の城をつくって彼を待っていたような地形をしていた。
しん咸陽かんようから潼間とうかん函谷関かんこくかんへ通ずる官道は、この錯綜さくそうした泥土の地形を切り開いてつくられており、やがては次第に坂になってゆく。
すでに軍門がつくられていた。
劉邦りゅうほうは車をとめさせた。樊噲はんかい以下を軍門外に待たせ、張良ちょうりょう一人をともなって軍門に入った。そのまま幔幕まんまくの中へ案内された。
劉邦は、入り口に近い下座を選び、膝を屈して頭を垂れた。
やがて項羽が多数の幕僚を従えて入って来るや、たかだたと剣を鳴らして劉邦をのぞみ、さらに近づき、相手の平伏する頭のさきで立ちはだかった。ついで、えるようにして罵倒した。項羽はこの勢いをもってみずからの手で劉邦を斬るつもりだった。
「劉邦、お前には無数の罪がある。・・・とりわけ」
函谷関で防戦したこと。咸陽にあっては秦の子嬰しえいの始末(ゆるしたこと)上将じょうしょうたるわしに上申することなく独断でやったこと、さらには勝手に秦の法を変え劉邦の法をいたこと、この三につき言い開きが出来るか、と項羽はどなった。
劉邦は這いつくばっている。項羽のくつのさきをめるようにして顔を垂れ、声をふるわせながら、そのいちいちの本意を言い、すべては大王(項羽)のために、さらには大王に関中かんちゅうをひきわたすためにやったことで、この劉邦めにどういう他意がございましょう、と申しひらきした。
(こんな男だったのか)
と、項羽は劉邦の哀訴する姿を見て、一時に気勢ががれてしまった。
劉邦はさらにゆかに顔をこすりつけながら、自分は大王のために力をつくして攻め、ようやく秦をやぶりましたが。このように大王に思わぬ疑心を持たせたことは劉邦の不徳とはいいながら、おそらく小人の中傷があったのでございましょう、というと、項羽は潮が退いてゆくように静かなになり、
「中傷?」
劉邦の言葉を素直に受けてしまった。
「中傷したのは、曹無傷そうむしょうという男だ」
と、劉邦麾下きかの裏切りも者の名まで明かした。明かすということは、項羽の感情が劉邦への好意に一変したこととも言えるかも知れない。
(左司馬さしばの曹無傷か)
劉邦の奇妙さは、その男に憎しみなしに思った事であった。中傷というより、実情ではないか。
ふたたび項羽の声が落ちて来た。
「でなければ」
と、言う。密告が無ければ、という意味である。
「── わしがきみを」
疑うはずがない、と項羽は言った。その声が遠ざかってゆくのを、劉邦はゆかを舐めながら、全身で感じた。ばけものはいったん去ったが、安堵あんどはできなかった。ただ劉邦はわずかに頭をあげようとした。
沛公はいこうよ」
項羽が再び言ったため、劉邦は音が鳴るほどに頭で床をたたいた。
う、席につかれよ」
項羽の声が、やさしくいなった。そのとき、項伯こうはくが現れて、劉邦の手をとった。
酒宴の支度がされた。
2020/04/14
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