~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅶ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
鴻門の会 (十二)
酒宴では、は東面した。おじ・・項伯こうはくを陪席させておなじく東面させたのは、劉邦りゅうほうの縁を項伯がとりもったことによるものであった。項伯が項羽陣営の次席的な要人であるというわけではない。
項伯をそこに陪席させたということが、項羽の劉邦への感情の好転と受け取れないことは無かった。
亜父あほ范増はんぞうが、項羽陣営の重要人物であった。彼は痩身をひそひそと移し、南面してすわった。
劉邦には北面の席が与えられている。自然、范増と向かい合うようになった。っこの位置は、位置だけで劇的であったと言っていい。
張良ちょうりょうは劉邦が連れて来た唯一の陪席者であった。彼は貴婦人が微風に吹かれて夕涼みでもしているような静かな表情で、与えられた西面の席にすわっていた。
それらの中央の大きな空間は、酒肴しゅこうを運んで動きまわる人々でうずを巻くようにいそがしかった。
関中かんちゅうの民は、飢えている。
しかっしここだけは別世界のように豊富な肉があった。招宴というのは戦国以前からこの大陸における最高の儀式であり、神を抜いて人間だけが相互に喜び合う宗教行事のようなものであった。あらゆる料理もまた権力者の招宴を媒介として発達した。
范増は少食なのか、老いているせいなのか、やわらかいものを二、三きれ口に運んだきりで、あまりはしを動かさない。
項羽は、大いに食い、小石のような葉で盛んに咀嚼そしゃくした。
この男の大きな体に詰め込まれた重い筋肉を養うためには、並大抵の摂取量では間に合わないようであった。大いに飲みもした。目の前の多種類の酒器が、みるみるから・・になった。
劉邦も、その欲望の強さに比例するように生来の大啖おおぐらいであったが、この日はただ皿の上に箸をおよがせていることのほうが多い。
(ばかなやつだ)
范増は、腹が立った。劉邦に対してでない。
范増はすでに項羽が気組きぐみをくじかれたことにには火のような猛気を発するが、劉邦は入って来た早々に五体を地に投げて哀を乞うた。項羽は拍子をいらだっていた。劉邦が、もし威儀を正し、自尊心を保ちつつやってくれば、項羽の剣は劉邦を斬るべくあがったであろう。項羽はあらが う相手や昂然と頭を持ちあげている相手には火のような猛気を発するが、劉邦は入って来た早々に五体を地に投げてあいを乞うた。項羽は、拍子を失ってしまった。
(狡猾な劉邦は、項羽の気性を知っている。出鼻をくじかれたのだ)
范増は、そのことも予想していた。
第二段として、酒宴で殺しなされ、と項羽に献策してある。いまが好機だ、というときに自分は腰のけつ(玉つくったドーナツ形の装身具。一部分、欠けている)を鳴らす、それが合図です、すかさず大王は幔幕のそとの剣士に命じられよ、と言い含めてあった。
やがて范増は、好機だと見た。玦を何度も鳴らした。
が、項羽は大きな口へさかんに肉を運ぶのみで無視した。この日の料理にぶたの肩肉があり、項羽の好物だった。といって項羽は自分の下あごの咀嚼運動のために耳目がかすんでいたわけではなく、もはや殺す気がなくなっていた。彼は劉邦の弁疏べんそを信じたわけではなく、第一、弁疏の内容などろくに聞いていなかったし、おぼえてもいない。項羽は本来、視覚的現象で左右された。すでに劉邦を見た。その体全体が、寒夜の病犬やみいぬのようになってしまっている劉邦にその本質を項羽なりに見てしまい、こんなあわれな奴をおれが殺せるかと思った。その思いがつづき、酒席で北面している劉邦の姿を見ても印象が少しも変わらない。むしろ范増が合図をする玦の音がわずらわしかった。
范増は、たまりかねた。
(項羽はばかだ。あいつは平素、ほんの粟粒あわつぶのような、しかし何かの拍子に野放図にそれが広がって項羽の人格そのものになってしまうあの奇妙な気質のために自分自身の墓穴はかあなを掘るのだ。いな、すでに掘ってしまったのだ)
と、ここで大声で叫びたかった。その衝動しょうどうが范増に席を立たせた。幔幕の外に出ると、人を探した。
「荘、荘」
と、闇に向かって、犬を呼ぶようなひそやかな声を立てた。
すぐ見つかった。
護衛隊長格の項荘こうそうであった。項羽のいとこの一人で、将帥しょうすいに向かないが、機敏で力があり、項羽の身辺を守る男としては最適と言えた。范増がこの男を気に入ったいたのは、項羽以上に自分の志がわかってくれることだった。范増はすでに老いてこの俗世になんの野望もなかったが、ただ自分が考えぬいて一つずつ手を打つ策を一個の遊戯とし見、それを芸としてみごとに仕上げてみたいという欲望だけがあった。この構想の素材はいうまでもなく項羽である。この場合、今日のかいのように素材自信が勝手に芸をしてくれては范増ははなはだしく困るのである。その間のすべてを項荘は知っており、かつ范増も安心して、今朝、この項荘だけに秘策を授けておいた。
2020/04/15
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