彼の故郷の淮陰はこんにち晴江せいこう市とよばれる。付近に淮河わいがが流れ、沼沢しょうたくが多く、付近の肥沃ひよくな野は米作が盛んで、その豊かさが淮陰を都市化させた。とくに秦しんがこの町を郡都にしてから商業もさかえ、人口が大いにふえた。
彼はこの繁華な町ので生まれ、貧の中で成人した。そういう境涯である以上、商いを習うか、役所勤めでもすべきであったが、そのどちらもせずに、遊民になった。つまりは知り合いの家にころがいこんでは食いつぶし、そのつど信用まで失ったが、しかし次々に知る辺べを作っては居候いそうろう
になった。
この間に、逸話が多い。淮河のほとりで布を晒さらしている老婆がこの遊び人が飢えているのを見かね、犬にでも与えるようにしてめしを食わせた。数十日も食わせた。日が経ち、晒し仕事が終わるころ、韓信かんしんが老婆に礼を言い、いつか恩を返したい、と言うと、老婆は大きな口をたたくもんじゃないよ、私ゃあんたが餓ひもじがっているからめしをあたえただけで、礼など貰おうとは思わないよ、とののしるように言った。
韓信はののしられるにふさわしかった。大きな体をで包み、いつも腰に長剣を鳴らしてはほっつき歩いていた。あるとき気の荒い屠殺とさつ夫が韓信をからかって、その長剣でおれを刺してみろ、刺せなきゃおれの股またをくぐれ、と衆人の前でおどしあげた。この時韓信はおとなしく這はって股をくぐった。市中の人々は韓信を臆病者だといってさげすんだが、後年、韓信が名将の名をほしままにしてから、人々はこれを彼の大勇の証拠だというふうに美談にした。しかし韓信の痛いばかりの本質の一つにその臆病さがあったのではないか。
後年、彼はつねに敵を読む場合、あらゆる材料を自分の極端な臆病さで濾過ろかすることによって考え、判断し、さらには味方の防御を性格のその部分のよって完全なものにした。
ただ彼の性格には大きな矛盾が、平然と同居している。一方では勇気を必要とする緊張感を好み、この疼うずくような緊張へのあこがれが彼自身に自分こそ軍事的天才だと思わせ、さらには遊民時代、長剣をがちゃつかせて歩くというスタイルを作らせた。賭博とばくの才もあった。賭博を前にするとき。水のように冷静になったが、しかし変わっているのは、負けるというかん・・が働けば決して張らないことであった。張らないことによるどんな不名誉でも忍んだ。そのことは忍耐という美徳でよぶよりも厚顔というべきもので、右の挿話の場合も、雄大な筋骨の若者を前にした時、とても勝てないと思い。面つらの皮を厚くし、犬のように這い、相手の股をくぐったということにすぎない。ただくぐる時、韓信特有の異様な冷静さと厚顔さが、その精神と身動きをゆったりと保たせ、見物の中の一部の人々を感歎させた。むろんこの場合彼の後年の軍事能力に結ぶつく打算も働いていた。相手には背後に徒党がひかえている。こういう連中と喧嘩をすれば命をおとすか、淮陰の町に居られなくなるという平凡な打算である。さらには股をくぐりなから、彼のもっとも好む緊張の快感があったであろう。くぐることは、賭博をしないという賭博であり、同時に臆病という甘酸あまずっぱい液体の中に自分の全身を浸け、一面でそれとは矛盾した一種の浮力の感覚を楽しんでいるという意味での緊張であった。
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2020/04/17 |
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