~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅶ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
関 中 へ (四)
無名の韓信が、咸陽の町を歩いている。風がつよった。項羽軍が放った火は、幾団もの炎になり、そのさきが北へ奔るかと思えば、西へ襲いかかった。あるいは沖天ちゅうてんめざし滝のように旋動しつつせのぼったしした。
このなかにあって韓信かんしんは炎と遊んでいるようにあちこちを縫い歩いた。ときに火煙が韓信に襲いかかったが、すのつど獣のような敏捷さで逃げた。しかし概して閑々かんかんと歩いており、火のまわりにいながら炎がやって来ない方角を風に先んじて見つけた。頭をつかっているというわけではなく、皮膚から爪の先まで含めた全身の感覚でごく自然にそのように動けるだしかった。
いつの間にか宮殿や官衙かんがの街から遠ざかり、富商の屋敷の一角紛れ込んだ。ここも、各所に火があがっており、火がまわると略奪兵たちはねずみの群のように去った。
(おれも、なにかってやろうか)
と思ったが、韓信はなにを奪りたいということもない。ただ料理の上手な奴僕ぬぼくでもいればそこになべをかつがせてときにうまいものを食いたい、と思い、そう思いつつある屋敷の中に入り込むと、へい一つで隣家がすでに燃えあがっており、走って寝室の一つに入った。すぐ高床ったかゆかがあった。ゆかに手をふれると、内部のこう(オンドル)はすでに冷えていた。床の下の炕の中で、なにか音がした。
(── 人だ)
と思った時は、韓信は数歩飛びのいていた。自分には害意がないということを示すために自分は淮陰わいいんの人間である、名を韓信と言い、項羽の郎中ろうちゅうである、と名乗り、もしあなたたせよければ自分のぼくになってもらえまいか。「兵たちに殺されるよりましじゃないか」とまではいわなかったが、韓信のまろやかな音声とその誘いには無害な印象があり、相手には十分通じたはずだった。
炕の中からすすだらけになって這い出て来たのは、女である。
(女か)
韓信は一方で失望し、一方では女でもいい、とあきらめた。しかしよく見ると、十六、七の娘で細い切れ長の目が白く光っている。韓信は相手の容貌からきょう(関中かんちゅうの北方の漠野ばくやにいる異民族)の血をひいているらしい、と思った。しかし元来、しんのこの関中という地は羌人の草原に近いために歴史的に交渉や混血がしげく、関中人(秦人)はどこか羌人に似ている者が多い。羌人とは、チベット系であろうか。
(煤をぬぐえば、あるいは女のなかにぎょくであるかも知れない)
と思ったが、韓信はことさらに心を動かさない。韓信は自分がたてた目的に拘束されるたちで、たとえ女であれ、当初の考え通り下僕にしたい。
「この家のどこかにぬのこがないか」
というと、女はさとりが早く、どこかえ走り去ると、やがて下男の着るようなぬのこ・・・あら毛衣けごろもをまとって来た。せて背が高いために少年に見られなくもなく、少なくともこの状況下で街路を歩くには少年の人体にんていにしたほうが安全だった。
、女は口をきかない。おしかも知れないと思ったが、韓信が聞くと、点頭したりかぶり・・・を振ったりする。それによると女はこの屋敷の娘かめいのようで、何かの事情で逃げ残ったらしい。韓信はそういう育ちである事に頓着せず、女に大きな鍋を背負わせた。
「羌よ」
と、呼んでみた。いったん呼んだ名を、この女の呼び名にした。
「いつでもいやになったら逃げろ、しかしわしについているかぎり、保護してやる」
2020/04/18
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