~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅶ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
関 中 へ (五)
項羽こううはなおも鴻門こうもんの陣営にあり、西方の天を焦がす咸陽かんようの火を見ながら、戦後措置そちに没頭していた。
ただし項羽がやっているのは措置といえるほど思慮深いことだったかどうか。彼がまずやったことといえば、が保護していたしんの降王子嬰しえいを軍陣の庭に引き出し、衆人のなかでその首をねたことと、秦都咸陽を焼き払ったことであった。項羽にすればこれで秦帝国そのものをま抹殺したことになる。
(そういうことは、子供のやることだ)
さほどに政治感覚があるわけでもない韓信かんしんでさえそう思った。痛快ではあっても、項羽が秦という統一帝国を継承するには関中かんちゅうの要害と肥沃ひよくさが必要であり、とすれば関中の人心を得ねばならず、さらには天下の行政網を締めくくるための役所が必要だった。項羽がせっかく手に入れたそれらのすべてを灰にしてしまうとはどういう料簡りょうけんなのであろう。
この間、項羽はむろん評定ひょうじょうを開いてはいる。その時の一人が進み出て、関中に首都を設けられよ、と説いた。
その者は、言う。
「戦国の頃の秦がなぜ強かったか、ただひとつ、関中にっていたからでございます。他の国々がいかに連合しても関中の要害に入ることが出来ず、逆に秦はほしいままに関中から兵を繰り出すことが出来、いかに大軍を繰り出しても関中の沃野はその食糧を十分にまかなうことが出来ました。始皇帝しこうていが天下をたのも関中を根拠地にしていたればこそでございます。大王はこれにならい、関中にあって天下を支配なさるべきでございましょう」
その者が言ったことはべつに卓説というほどのものではなく、たれもがそう考える常識にすぎなかった。
といって項羽に独自の政治理論があるわけではない。
── 故郷のへ帰りたい。
という異常すぎるほどに強い感情だけが彼を支配していた。彼は転戦してついに内陸部の西方のたなともいうべき関中盆地にまで至ったが、旧楚の呉中ごちゅう(蘇州)を出たのがひどく昔のように思えて来ている。江南で稲を育てることによって独自の文化をつくってきた楚人は、中原ちゅうげんや関中と違い、米を主食としてきた。項羽は久しく米を食わず、米のめしを想うだけでも骨が鳴る程に故郷が恋しくなるのである。
(関中など、都にできるか)
と思う感覚の中に、関中の風景が沂水きすい淮水わいすいあるいは長江ちょうこうの下流とちがっているということにもあった。。ひどく乾いている上に、木々や草の緑までが温暖多雨な楚とちがい酷薄なほどにあわっぽく感じられる。要するになにもかもが項羽の感覚にそぐわず、この感情の激しい男のとってはともかくも関中を去って大小の河川や沼沢の多い土地に帰りたかった。
といって、帰るべき土地としては故郷の江南は天下に対して南にかたよりすぎる。彭城ほうじょう(のちの徐州)でいい。彭城は旧楚の西方の都市であり、項羽の望郷の思いを十分に充足させる町といっていい。
もっとも、彭城は臨時の楚都で、ぬしとしてかい王が宮殿をかまえている。しかし秦がほろんだ以上、項羽の価値観の中では、懐王は無用に近い存在にまでなった。項羽自身が彭城に帰りたいとなれば、懐王をどこかへ動座させねばならない。
2020/04/18
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