~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅶ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
関 中 へ (九)
これらの論功行賞は、決定されるごとに発表される。
韓信かんしんがこれを聞いた時、
(范増はすぐれた策士だが、しかし広い天下を料理して帝国をおこすような器才の男ではない)
と、思った。
もっとも韓信にもその種の才があるわけではない。この男は、火の中の咸陽かんようで拾った女の表情やさ、さまざまの反応から、関中の秦人の感情を知ったのである。
女は料理もうまく、骨惜しみもせず、奴婢ぬひとして実に役に立った。
きょうよ、お前は富貴の家に育ったわりには、身も心も働くようにできている」
と感心して言うと、女は激しくかぶりを振った。質問を重ねてみると、女はなんとあの家の奴婢の子だっやという。主人の一族や使用人たちが咸陽を逃げる途中で過半が殺され、彼女は重病の母を看取みとるために屋敷の残った。その母も、あの掠奪さわぎの最中に死に、遺体を庭に埋め、自分はオンドルの中に隠れていたといころへ韓信が現れたということらしい。
「奴婢だったのか。奴婢ですでにお前のように気品があるのか」
韓信は言った。
「咸陽はさすがに永い間の秦都だっただけある」
古い王都というのは奴婢の階級でさえどこか気品がある、と感心したのである。
「おれも、淮陰わいいんの町ではであると自称していたが、実際は奴僕ぬぼくにも劣る暮しをしていた」
と笑い、どういうつもりか、その夜から女に夜のとぎをさせた。そのことは奴婢を軽んじたからということではなさそうだった。むしろ自分と似たような境涯の女に情欲を感ずる性的な感覚が韓信にあったのかもしれず、あるいは単にこの羌人に似て頬骨の高い女が好きになっただけのことかも知れない。
おしかと思われるほどに無口なこの女が、関中の土地を章邯ら三人が三分して王になるという話を韓信から聞いた時、
「秦人はみな、く」
と、はげしくかぶりを振った。
おさまるはずがない、と狂ったようにいう。項羽がかつて新安しんあん(河南省)で秦の降兵二十万をあなうめにしたが、関中にはそれらの兵の両親や妻子、友人が無数にいる。彼らが、わずか二ヶ月前のそのことを忘れるはずがなく、生き残った者が将軍の章邯とそれに次ぐ司馬欣、董翳の三人だけであることも知っていた。ただでさえこの三人に関中の恨みが集中しているのに、この三人が栄達して関中を三分して王になるなど、亡秦の遺民の許せるところではなかった。
「かの三人の肉をくらいたい」
と、女は言う。
はい(劉邦)を慕う気持ちがいよいよたかまるでしょう」
地をたたくような激しさで言った。
(そういうものか)
韓信は咸陽に来てまだ一旬も経っておらず、関中の人心にはうとかったが、今の言葉は女の唇から出たというよりも、大地がわずかに裂けて地霊が物を言ったような気味の悪さと重さを感じた。
(范増は、誤ったわ)
と、思った、同時に、
(劉邦はやがて戻って来るのではないか)
とも思った。范増の策では、劉邦を巴蜀。漢中に閉じ込め、漢中の出入り口であるこの関中に番人として章邯らを置き、万一劉邦が出て来る場合にこれをたたかせるつもりであるらしいが、関中の人心が章邯らから離れてしまっている以上、もし劉邦がその気になって工作すれば人民が蜂起ほうきし、章邯らはこの地に居られなくなるに違いない。劉邦はきっと帰って来る。
2020/04/20
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