~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅶ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
関 中 へ (十)
項羽こううの論功行賞は、次々に発表された。
結局、項羽や劉邦りゅうほを含めて十八人の王をつくった。しん法治ほうち主義、中央集権制および王侯に代わるに官僚をもってするという新政はいっさいくつがえされ、かつての戦国の封建制に戻った。項羽も范増はんぞうもそれが最良の新秩序とは思っていなかったが、各地の流民団の親方が、みずから旧国の王を称するか、王孫を探し出して来てそれを奉戴ほうたいして兵を集めるかそのどちらかのやり方をもって秦をくつがえしたため、当然、彼らの当初からの希望と期待に添わざるを得なかった。たとえば西魏せいぎ王、河南かなん王、かん王、いん王、だい王、常山じょうざん王、九江きゅうこう王、衡山こうざん王、臨江りんこう王、遼東りょうとう王、えん王、膠東こうとう王、せい王、済北さいほく王といったふうな王がにわかづくりで出来上がった。
侯もつくられた。たれが侯になったかなどはいちいち挙げられないほどに数が多かった。
この論功行賞は、項羽と三人の関中かんちゅう王以外、王侯になった者も、なりぞこねた者も、すべてが不満だった。
項羽は、功績の評価基準が単純すぎた。たとえばかげになって流民を組織した者や、その名声によって流民を吸引した者、あるいは妙策を立てて勝利に導いた者といったふうなたぐいは、みなはずされた。項羽が功として認めた者はみな第一線ではなばなしく戦った勇将たちで、後方にありながらその者が居たがために諸人もろびとの信がつながれたというたぐいに功績というものは項羽は一顧いっこもしなかった。
たとえば、義帝ぎていである。
「義帝などに封地ほうちらぬ」
と項羽が最初から言ったのも、この風変りな ── あるいは子供っぽい ── 規準による。義帝はなるほど一度も手を砕いて戦わなかった。が、范増は婉曲えんきょくにその非をさとした。うかつに正面から反対すれば范増といえども煮殺されかねない。
「もう土地は無い。しかし亜父あぼがそこまで言うなら、義帝に南方の地を与えよう」
項羽にはその魂の巨大さを感じさせる面もある。しかしその大きすぎる魂の容積の中には人よりも数倍もある子供っぽさも同居し、それが時に彼を勇敢にさせ、ときに彼に並外れて清らかな感情を表出させた。しかし子供が持っている功利性と残酷さが出て来る時には、たれもが制御出来なかった。
攻囲禹は、義帝にちんを呉てやると言った。郴というのは今日の地理でいえば長沙ちょうさの南方数百キロの山地で、今なお山岳少数民族の雑居地である。この当時、犬を祖先であるとし、焼畑やきばたをもって暮しを立てているやおちんにもっとも多く、また自分の領域を守ることにかけては部族が全滅してもいとわないミヤオ族、あるいは古くから水稲耕作を知りつつ他と同化せず、頑固に古代タイ語をつかい、ときに赤石蛮と呼ばれたりした侗族トンなどがいる。
要するに、蛮地であった。
義帝はやむなくそこへ行くべく彭城ほうじょうを去った。
項羽は、この義帝の始末については、すぐ後悔した。
── 生かしておけば、あとあと面倒なことになるのではないか。
と思い、兵を送って義帝の後を追わせ、長江のほとりでこれを殺してしまった。
2020/04/20
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