~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅶ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
関 中 へ (十一)
劉邦りゅうほうとその軍勢も、哀れだった。
彼は三万の軍を率い、西南方に横たわる山嶮に向かった。
劉邦軍が出発する前、韓信かんしん項羽こううを見限り、無断で鴻門こうもんの陣営を脱出した。そこは微賤びせんの身だった。この男が居ようと消えようと一軍に何の変化もない。
「項羽を見限ってやった」
と、混信がこの女に入った時、女の固い表情がみるみる溶けるようにして笑顔に変わった。
もっとも、見限ったと言っても、韓信は項羽が天下を失うなどと予想したわけではなかった。
むしろ逆で、項羽の存在そのものが天下として大膨脹してしまった以上、そこかけ出すことは、韓信自身が失落したにひとしい。
しかしこの男は、仕事をしたかった。もし自分のこの器才がためされることなく世を終わるようなことがあっては死んでも塚穴から黒い煙が立つのではないかと執拗しつように思い続け、その執拗さがそのまま項羽や范増はんぞうへの憎悪になった。もっとも項羽や范増にすれは、視野からはるかに遠い微役の男がそれほど自分を憎んでいるなど、気付きもしていない。
かん王のもとに行かれるのですね」
と、女は言った。
漢中かんちゅうとは、そこを流れている漢水という河の名から出た地名らしいが、その地域は単に漢と呼ばれることの方が多かった。あらたに漢中王になった劉邦に対し、人々は漢王と呼んだ。この故しんの流刑地の呼称が、後代、この大陸のすべてに対する呼称になり、またこの大陸で共通の文化を持つ民族に対する呼称として二十世紀に至ってもなお呼ばれるようになろうとは、この当時、韓信もその女も、あるいは劉邦自身、もしくはその謀臣の張良ちょうりょうでさえ夢にも予想出来なかった。
しかし韓信には、
(少なくとも漢は関中かんちゅうを回復出来るのではないか)
とう予想だけは確固としてあった。項羽は遠く彭城ほうじょうへ去る。間中には章邯しょうかんら三人の不人気な王だけが秦人の海の中に残される。韓信は女を通じて関中の人心がいかに劉邦になびいているかをつぶさに知ったために、他日、劉邦が関中というこの大陸の豊かな棚にさえ居れば、あとは利あれば中原ちゅうげんに出陣し、不利ならば関中に退き、(項羽)を相手にどういう絵も描いてゆけるだろう。
(しかしかといって漢の劉邦の勢力は小さく、楚の項羽の勢力は比類を絶して大きい。その上、劉邦は臆病で、彼自身いくさの仕方もおぼつかないようだ。漢と楚が戦い続ける場合、十に一つも劉邦に勝ち目はない。しかし負けぬ工夫というものがあるのではないか)
韓信が劉邦にけた理由はその程度のものだった。ただし条件があった。劉邦がこのおれの器才を認めさえすれば彼の運が開けるのではないか、ということである。韓信にはこういう、ばかばかしいほどのうぬぼれがあった。
巴蜀はしょく・漢中へおちてゆく漢軍の前途を多くの人々が見かぎった。このため韓信の就職運動はいたって容易だった。同郷人の何人かをつて・・にして、上へ上へと紹介をたぐって行ってもらい、ついに最高幹部の一人に会った。それが蕭何しょうかだった。
(蕭何か)
と韓信は失望した。蕭何が漢軍の軍務から補給、占領地の行政にいたるまですべてを総攬そうらんしていることは韓信も知っていたが、なにそろ文官ではないか、ひとたび蕭何の系列に入ってしまえば、軍吏をやるしかしかたがないのではないか。
2020/04/21
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