~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅶ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
関 中 へ (十二)
韓信が簫何に会ったのは、漢軍が関中平野を西南に進みはじめた二日目の夜営地においてであった。すでに冬が終わろうとしていたが、しかし春の気配はなく、はるかに漠北ばくほくにつながってゆく星空が、凍りついた黄土の野に無数の細い光りを降らせていた。
蕭何の宿舎は、黄土を練り上げて壁をつくった二棟の民家だった。
そのまわりの家々には諸隊の兵士もいたが、多くは軍夫で、野にも道にも糧秣りょうまつを満載した車が無数にしかも整然とならべられていた。いかにもその方面の名人である蕭何がそれたの物資の中にいるといった感じで、一軍の豊かさと秩序を思わせた。
韓信が入って行くと、蕭何は灯火の下で木簡もっかんけずっては何かを書き入れている。
(蕭何とは、思ったよりも貧相な男だ)
韓信は、むしろのすみに両膝を折り、灯のたりを観察した。韓信のきくところ、この乱世の中で劉邦のような役立たずの男をかつぎあげてこれだけの勢力にしたのは蕭何だというが、豪傑というようなにおいはまったくなく、見たところ、前身である県の役人と少しも変わらない。
やがて蕭何は燭台を持って立ち上がり、みずから韓信のそばへやって来た。ひそひそとした歩き方で、目の前にすわるといっそうかさが小さくなった。
「韓信さんは、淮陰わいいんのお生まれだそうですな」
声は小さかったが、くぐもったようなまるい音質で、この声だけでも人づきあいの永持ながもちする男ではないか、と韓信に思わせた。
どういうわけか、この蕭何はひとを多弁にしてしまうようだった。蕭何自身はなにもしゃべらず、話のあいま・・・に感心したり、ふかくうなずいたり、あるいは小首をかしげて微笑するだけで、平素雄弁家でもない韓信が心の中にある鬱懐のすべてを語ってしまった。
韓信の語るところは、項羽とその首脳部への不満ばかりである。むろん自分が用いられないということについての私憤がもとにあるのだが、韓信の心のどこかを濾過するとその項羽観がみごとな客観性を帯び、論理にすこしのあいまいさもなかった。
「ははあ、楚王(項羽)とはそういう御人ですか」
蕭何も、項羽はよく知っている。しかしこの感心の仕方はとぼけているのではなく、韓信の言葉が現出してゆく項羽像が、蕭何の眼力ではかつてうかがうことが出来なかった内面を露呈しているようで、しかも奇妙な見方ではなく、聴いていて蕭何もうなずけるのである。
最後に、蕭何は、あなたは漢王の徳を慕ってこの陣に投じられたが、どういうことをしたいのか、たとえば千里に使いするとか、それとも戦場で兵を進退させることか、あるいはほこをふるって一軍の先駆をなすことか、と聞くと、韓信は、
「私に全軍の進退をさせてもらえればありがたい」
と、途方もない事を言ったため、蕭何は偶然だったのかどうか、めまい・・・がしてしばらく頭を垂れていた。項羽軍の一介の下級将校だった男が、はじめて会った蕭何に劉邦軍の全指揮権を私にわたせ、というのである。返答の出来るようなことではなく、蕭何はどういう態度をいいのかさえ迷った。
本来、追っ払う以外に手がなかったろうが、蕭何は「失礼した」私にはめまい戟・・・の癖がある、と正直に言い、
「そのご希望については、いずれしょう(劉邦)へ申し上げましょう。それまでの間、もしよろしければ、私の手伝いをしてくれませんか」
と、言った。蕭何の言ったことは韓信に対する返答にはならなかったが、しかし韓信としてはここで肅何に追い返されては明日の朝飯のあてもなくなってしまう。とりあえず、その蕭何の言葉に対してうなずいた。しかしこの時はすでに無口でやや陰鬱な平素の韓信の表情に戻っていた。
(ここでも、私はうかばれぬかも知れない)
と、思った。
その夜、韓信かんしんは下僕のていふんした女を連れて星空の下を遠くまで歩いた。女の縁者の農家へ彼女を送って行くためで、途中、金目の物すべてを女に与えた。もう会えないかも知れない。
「おまえは、ではあるまい」
女は立ち止った。全身がこまかく震えていることが、夜目にも分かった。あの屋敷の何番目かの息子の嫁だったのではないか。お韓信はこの女と接しているうちに想像するようになったが、しかし韓信自身、こわくてその想像を口にすることは出来なかった。女が自殺するかも知れない。しんは戦国の昔から悖徳はいとくに対しては恐るべき社会だった。道徳はすべて法に組み入れられ、もし女が不貞をはたらけば情状などいっさい顧慮されず。衆人の前で残忍な刑に処せられた。秦の法はいったん劉邦りゅうほうが廃止したが項羽がその廃止を無効にしたからなお継続している。秦の法の残忍さのために秦の女が不貞についておそれることは飢えた虎を見るよりはなはだしかった。
「亭主が、おまえを置き去りにして逃げてしまったのか」
「いいえ、逃げたのはしゅうとたちです」
女は、小さな声で言った。
「亭主は?」
章邯しょうかん徴兵ちょうへいされて関東(函谷関より東方、中原のこと)へ行きました」
「いま、どこにいる」
「新安(河南省)あなの中にいます」
と言った時、女はのめるようにして折りくずれてしまった。
2020/04/22
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