ユーラシア大陸の屋根をなすのはヒマラヤ山脈と崑崙山脈を含めた地球の巨大な皺しわだが、それらの山の勢いが東方へ押し寄せて中国大陸に入る時やや衰えを見せる。それでもなお岷山みんざん山脈の高峻をつくり、さらに萎なえて陝西せんせい方面をおびやかし、秦嶺しんれい山脈として天に聳え、さらに大巴だいは山脈となって、人々の攀よじ登るのをこばんでいる。いずれも崑崙、ヒマラヤの余波といっていい。
劉邦りゅうほうとその漢かん軍が関中かんちゅう盆地を過ぎて海抜三千メートルの暗黄色の山々を越える道は、わずかに二つしかない。褒谷ほうや道と陳倉ちんそう道であった。ただし道路といえるような通路ではなかった。
「秦しんノ桟道さんどう」
と、中原ちゅうげんの人々が遠い国の神話でも聞くようにして伝えている道で、下は千丈の谷という岸壁の中腹に丸太の支柱を作り、その上に丸太を置き並べて作った桟なのである。桟は、わずかに人を一人通すのみであった。また巴蜀はしょくへ至る大巴山脈を越えねばならず、ここに、後世、唐とうの李白りはくがうたった「蜀道の難かたきは青天に上のぼるよりも難し」という蜀の桟道がある。
これらを越え、渡って行く漢軍の一人一人の行路の辛さは、後世の登山家の比ではなかったであろう。乗馬や輓馬ばんば、あるいは車は関中の一定の場に置き捨て、荷は士卒が背負い、軍夫もまた背負った。桟は山を繞めぐり、ときに雲が足もとを流れ、日に何人かは士卒がはるかな谷へ悲鳴を残しながら落ちた。
士卒の多くは、黄河こうが、淮河わいが、あるいは長江ちょうこうに沿ったおだやかな自然を故郷としているだけに、死人の肌のような色をした山谷さんこくをみるだけでも怯えた。さらにそれらを繞ってゆくうちに前途への希望が萎なえ、この魔界のような自然を越えて何があるというのかと思うと、人に問の足は進まなくなった。何日か経つと、逃亡者が多くなった。みな集団で逃げた。日が経つにつれ、将たちまでが逃げはじめた。将が逃亡しようというと、配下救われたように歓声をあげて従った。このままでは漢軍の何割かが漢中盆地に辿りつくまでに消えてしまうのではないか。
劉邦にもっとも忠実な護衛隊長の樊噲はんかいでさえ、
── わしらが懸命に戦ってきたのは、ひたすら故郷へ帰る楽しみがあったればこそだ。生きて再び泗水しすいの流れを見ることが出来ないようなこんな蛮地をさ迷っているくらいなら、いっそ死んだほうがましだ。
と、泣いた。
中でも新参の韓信の気持は、どうにもならない。天下軍である楚そ軍からわざわざ鞍くら替えしてきたというのに、なんとうらぶれた軍に入ってしまったことか。その上、韓信は彼の希望が容いれられたどころか、蕭何しょうかによって命ぜられたのは、連敖れんごうという本営の雑役係だった。連敖は百人のいたろう。
ある宿営地で、韓信はそれらのうちの十数人の仲間と共謀し、本営の行李こうりから酒と肴さかなを盗み出し、車座になって大騒ぎした。酒が欲しかったのではなく自暴自棄になってしまっていた。
当然、韓信は仲間たちと共に軍法に触れ、首を刎はねられることになった。処刑はこの大陸の慣行によって衆を集めて見物させる。劉邦自身が、むろん検分する。
(あいつが劉邦か)
韓信は、縛られながら、劉邦を見た。今まで職務上、何度か劉邦の顔を見てきたが、今日ほど間の抜けた顔に見えたことがない。韓信は自分の運命がこうの自分の志と違い、かつ漢中へ行って生涯、田舎いなかの下っ端役人で終わるくらいならここで死んだ方がましだと思いさだめていた。その点、彼はふしぎなほどに生命への執着心のすくない男だった。 |
2020/04/23 |
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