~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅶ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
関 中 へ (十五)
この兵站の仕事をするようになってから、その方面の最高責任者である蕭何しょうかとの接触がしげくなった。
(なぜこんなつまらない男を劉邦は大切に扱っているのだろう)
韓信が思うほど、蕭何は平凡な吏僚という印象から多くは越えていない感じだった。このあたり、韓信より劉邦の方が、高い場所に窓のあいた人間と言っていいであろう。蕭何に関し、韓信に見えない何事かを劉邦は見ているようであり、そういうことよりもおきに幼児が親を頼りにするようにして蕭何を扱い、この態度は一貫して変わらなかった。蕭何は常に後方にいて戦争をしたことは一度もなかった。軍事がすべてというこの段階の劉邦と漢軍にとって蕭何の存在はむしろ異例で、それ以上にそういう蕭何を大切にしている劉邦の態度は、韓信にはわかりにくかった。
蕭何は、劉邦が巴蜀・漢中を得て漢王を称するよになったとき、丞相じょうそうに任ぜられた。丞相というのは文官としての最高官であったが、やっている仕事といえば相変わらず補給と軍旅の宿しゅく割、あるいはあらたに漢の領地になった巴蜀・漢中に先遣隊を出して行政の基礎固めをするといったことばかりであった。
ある時、急坂きゅうはんというよりも地の底へそのまま吸い込まれてゆきそうな坂の上で、韓信は軍夫たちと一緒に思案していた。人間が荷を背負っておりれば、荷であががっている重心が人間をかっさらって谷底へ連れて行ってしまうことはまちがいなかった。
そこへ蕭何が通りかかった。丞相といわれるほどの男であったが、容儀はつねに軽く、食糧を持った男二人と走り使いの者一人を連れているだけだったが、蕭何は韓信の肩を叩き、
しんさん、あなたは天才かも知れないが、いくさ・・・というのは、本来これだよ」
と笑って、急坂を難なく降りて行った。身ごなしが、鳥を追っている猟師のように軽かった。
このあたりが、蕭何の気くばりというものだった。
この男は全軍の様子をその神経の中におさめて軍夫のはしばしにいたるまでそのぐあい・・・を見つづけているようであった。いくさきちがいといえる韓信を 治粟ちぞく都尉といという兵站へいたんの一隊長にすべく劉邦に献言したのも、蕭何であった。戦いの基本は補給であり、いくら兵の進退に長じた将軍でも補給を思考の主要要素に入れなければ素人にすぎず、素人のいくさ上手に戦争をやらせるととんでもない惨禍さんかを味方にこうむらせてしまうことを蕭何はあらゆる人間と局面を見て来てよく知っていた。韓信を治粟ちぞく都尉といにしたのも肅何の気くばりの一つであったといっていい。
蕭何の気くばりは、むろん劉邦をも、目に見えぬまゆをつくるようにしてくるんでいた。この難行軍にをあげ、前途についても絶望してしまったのは、劉邦自身だった。彼は遊び人あかりだけに体力や根気がなく、
「もうだめだ」
と、何度も悲鳴をあげていた。いっそ関中にもどって項羽と戦う、と自暴やけをおこしたとき、蕭何はすばやく張良に目くばせした。張良の聡明な言葉以外、劉邦をまだめる方法がないことを蕭何は知っていた。
「主上よ。これはほんの一局面にすぎないのです」
と、張良は言い、ただそのひとことで劉邦の気持はしずまった。
ついでながらこの長征における張良の気働きばたらきというのは非常なものであった。彼は劉邦を漢中に送ってから自分は引き返すつもりでいた。彼自身の主人であるかんせいは項羽によって旧漢の地のほんの狭い領地を与えられ、陽翟ようてき(河南省禹県)に都することを命ぜられた。張良はその過労として面倒を見るため陽翟へ行かねばならない。
2020/04/26
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