(そうだったのか)
劉邦は、項羽の勇悍しか知らない。勇悍のあまり、降伏した敵兵を何十万も平気で生きうめにしたりする。怒れば配下をどなる。ただそういう男かと思っていたが、反面、味方への愛情の強さがそこまであるとは思わなかった。配下の病気で苦しむのを見て涙をこぼすなど、劉邦の感情にはそういう部分を持たなかった。項羽の感情にあっては、この世の人々は自分の味方であるか敵であるか、どちらかで、中間というものがなかっら。敵をあくまでも憎み、味方をあくまでも愛するために、論功行賞も露骨に愛憎でもって行った。中間というあいまいな感情が項羽にはないようであった。しかし劉邦がおのれを振り返ってみると、平凡な人間という以外に何の感想もない。敵や自分を裏切った者をそれほど憎めないかわりに、かつて配下に対し情熱的な愛を注いだこともない。
(おれは、つまらぬ男だな)
と、劉邦はわらながら、自分がおかしかった。
韓信の両眼が、そういう劉邦を見すかすように見つめている
「おわかりになりましたか」
と、真顔で言った。
韓信は、ここで劉邦に韓信すべきであったろう。もし項羽にこのような事を言えばふたことも言わぬ間に煮殺にころされるに違いない。が、韓信には人間のこういう部分に感激したりする感受性が、もともと無いにひとしかった。この点、例えば張良ちょうりょうとは基本的に違っていた。韓信は劉邦を物の言いやすい人物と見ており、そう見た以上、そういう劉邦観が単に記号になり、記号の上にあらたな思考を積みあげるのみであった。記号を感激する馬鹿もないではないか。
「ただし項王が持っておられる臣強というのは」
と、韓信は言った。
「婦人の仁です」
と言った時、劉邦は驚き、蕭何しょうかも夏侯嬰かこうえいも、目をそばだてた。
「項王はあれほど配下の将軍を愛しながら、いざ彼らの功績に対し封土ほうどや爵位を与える場合、ためらい、吝おしみ、どうせ授けねばならぬ印いんを手中から離さず、こすりにこすって、すりへらしてしまうほどです。仁ではあっても物を惜しむこと甚はなはだしい。それは婦人の仁と言うべきです」
(そういう点は、おれはまぬがれている)
と、劉邦は思った。
「でありますから、項王の悍強かんきょう、結局はもろいでしょう」
「項羽は、もろいか」
劉邦は救われたように言った。
「とは、参りませぬ」
「いま脆もろいと将軍は言ったではないか」
「相手によってはもろいと言っただけです」
「相手とはたれのことか」
劉邦が、咳き込んだ。
「大王のことです」
韓信は、蔓つたにぶらさがった瓜うりを眺める農夫のような無表情さで、劉邦を見つめた。
「大王よ」
韓信は言った。
「大王は要するに項王と反対のことをなさればよいのです。天下に武に長たけた者があればどんどん任用されよ。功を立てれば惜しみなく天下の城邑まちをお与えなされ。さすれば、項王の悍強はついにみずから折れざるを得ません」
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2020/04/29 |
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