~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅶ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
彭城の大潰乱 (三)
さらに韓信は、項羽が取り返しのつかぬ失敗をしたことを四つあげた。ひとつは関中かんちゅう沃野よくやと要害を捨てて遥か東へ走り、大敵を防ぎ難い彭城ほうじょう(徐州)を根拠地にしたことである。次いで最初に担ぎ上げた帝に論功行賞を相談せず、自分を敬し、自分が愛した者ばかりに大きな封爵を与え、功があっても項王に疎遠だった者に何も与えなかったか、与えるものを薄くしたことである。
これによって新規の王侯どもは項王の威をおそれてその盟下めいかには入っているものの、その実いつ離反するかわからない。第三は、野戦のいたるところで虐殺行為のかぎりをつくしたことであった。このため人心は項王から離れている、と、韓信は言った。第四番目は、義帝を江南こうなんのはるか南に流罪るざい同然にして追放したことである、と言った(この時期、義帝が項羽に殺されたことは、情報として入っていない)
「大王よ」
と、韓信は言った。
「大王の配下はこのような僻陬へきすうに来て、東方の故郷を狂わんばかりに懐かしんでおります。彼らを率い、義によって項羽を討つと天下に標榜ひょうぼうして関中をめざされれば、兵は喜び、その勢いあたるべからず、天下に充満する不満の心はみな大王に味方しましょう」
と、言った。
さらに韓信はくりかえし、秦の故地(関中)をまず攻められよ、と言った。必ず成功します、とも言い、関中の人心が新王の章邯しょうかんから離れている事実をあげた。言い終わってしばらく息を入れ、次いで関中へ入るための作戦計画を述べた。
この間、劉邦は正座したり膝をきずしたりした。韓信も大柄だが、劉邦にはかなわない。とくに劉邦は胴がおろち・・・のように長く、上体がゆらゆらしていて、ときに滑稽な感じもした。顔の下半分が漆黒しつこくのひげで覆われているために外貌から賢愚がうかがいにくい。ひげの中に、たえず濡れている唇が隠顕いんけんした。両眼は聡明という印象から遠く、その厚い唇はいかにも欲深そうだった。最初、韓信は、
(こういう男が天下をとれるだろうか)
と、不安に思った。ただ劉邦は微笑わらうとひどく可愛い顔になった。
可愛いといっても、美男とも子供っぽさともちがっていた。韓信の見るところ、愛すべき愚者という感じだった。もっとも痴愚という意味での愚者でなく、自分をいつでもほうり出して実体はぼんやりしているという感じで、いわば大きな袋のようであった。置きっぱなしの袋は型も定まらず、また袋自身の思考などはなく、ただ容量があるだけだったが、棟梁とうりょうになる場合、賢者よりはるかにまさっているのではあるまいか。賢者は自分のすぐれた思考力がそのまま限界になるが、袋ならばその賢者を中へ放り込んで用いることが出来る。
(劉邦という男は、袋というべきか、粘土どろのかたまりというべきか)
韓信かんしんは、話すうちに劉邦という男がひどく新鮮に見えてきた。当初、どろ・・があいまいに人の形らしい恰好をなしてすわっているような印象でもあったが、韓信が話し終わった時どろ・・がいきなり人になった。劉邦は右こぶし・・・げ、喜びのあまりかたわらの小机を打った。
── 将軍よ、わしはあなたを得ることがおそすぎた。
と叫んだ。劉邦はどうやら韓信によってはじめて自分を知ったようでもある。少なくともあらたな自分をつくる方向を得、さらには明日から行動すべきすべての方針と日程まで手に入れた。この点、貴族の出の張良とは遠慮ぶかすぎた。韓信は元来失うものが何一つない庶人しょじんの出で、言葉は率直、露骨であり、また物事を冷酷なほどに正確に見る能力と習性を身につけていた。劉邦が張良によって自分を発見せず、韓信によって発見したのは、同階級出身の韓信の言葉の方が同じ感覚の劉邦に対し電磁力を帯びたようにいききとしていたせいであるかも知れなかった。
2020/04/29
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