関中は、通常、地名として秦と呼ばれる。
項羽こううが三分して亡秦の将だった三人の王(章邯しょうかん、司馬欣しばきん、董翳とうえい)に与えたためこの地域名は三秦と呼ばれるようになっている。
三秦のうち、章邯の封土は秦の旧都咸陽かんようより西方すべてで、その首都は項羽の命で廃丘はいきゅう(陝西せいせん省興平こうへい)に置かれている。咸陽のすぐ南で、田舎町いなかまちにすぎない。
章邯の版図はんとの西方に宝鶏ほうけいという町がある
むかし秦の文ぶん公がこのあたりに狩猟をして、不思議な石を獲えた。石は流星のように輝き、雄鶏おんどりのように鳴いたというから、天から落下した隕石いんせきであったろうか。文公は神異を感じ、一祠いつしを建ててこれを祀った。祠ほこらは宝鶏祠とか陳宝祠ちんぽうしと呼ばれ、やがて町の名になった。
この宝鶏のそばに、黄土層の大地が大きく穿うがたれて官用の穀物を収蔵したあなぐらがある。陳倉ちんそうという。渭水いすいに沿っている。渭水は西方の隴西ろうせいを源として東流し、陳倉を経て咸陽にいたる。かつて咸陽の大人口の食物を貯蔵していたのがこの陳倉であり、今も章邯の首都廃丘の食糧はここでたくわえられている。
その陳倉をうばうべく漢かん軍が出現したと聞いた時章邯はうそだろうと思った。
「降って涌わいたわけではあるまい」
と、急報者をどなった。
こういう場合、秦の末期、機動軍を率いて各地の一揆いっきと戦っている頃は常に温容を保ち、声色せいしょくが穏やかであったが、近頃は人変わりしたように顔も険しくなり、不意に笑い、理由なく怒ったりした。
ただしこの時の怒りには理由があった。突如、漢軍が現れるなどありえなかった。が、宝鶏や陳倉の守備隊の耳目じもくは、漢軍に包囲されるまで何も聞かず、何も見なかった。
この漢軍にとっての奇蹟は、韓信かんしんの戦略によるものだった。韓信は特別工作隊を組織し、あらかじめ宝鶏付近に潜入させ、農民たちと十分に語りあわさせ、すべての農民を味方に引き入れてしまったいたのである。
どの農民も、漢軍の出現を官に届け出なかった。彼らはそれほどに章邯を憎み、一方、かつて関中を占領して一物も掠奪しなかった劉邦とその軍隊をなるかしみ、一日も早く劉邦が漢中から出て来て関中をおさめることを、旱天かんてんのとき雨をひたすらに待つかのようにして待っていた。関中の農民がすべて劉邦に味方したということは、劉邦の戦いにとって戦略以前の大政略をなしていた。このやり方は後世のどの時代の革命軍にも引き継がれるようになった。
このあと、韓信の大軍がひそかに関中平野に入った。要するに降って涌いたのである。その軍はたちまち野を洪水こうずいのようにひたし、宝鶏、陳倉を奪った。
章邯はすぐさま兵を陳倉に出したが、章邯軍の経路、動向を、土地々々の農民が韓信に報しらせた。
韓信は穽わなをつくり、子うさぎを捕るようにしてこれを捕え、破った。章邯はいらだち、みずから兵を率いて西進した。しかし一戦で敗れ、敗走し、好畤こうじという町に退き、ついで廃丘に逃げ込んだが、韓信が付近の河川を切って水攻めにし、廃丘を孤立させ、そのはてに章邯を自殺させた。かつてあれほどの将才をうたわれた章邯にしてはもろすぎるほどの最期であった。この間、漢軍の別働隊が司馬欣しばきんを櫟陽れきように攻め、また董翳とうえいを高奴こうどに攻め、それぞれ滅ぼした。彼らは滅びるというよりも溶とけるように消えた。最後には兵たちは王を捨てて逃げた。
関中の人々は、歓呼して劉邦を迎えた。
この地は連年の不作と掠奪で荒廃し、秦の旧都咸陽も項羽軍の放火によって灰になってしまっていた。このため劉邦は、とりあえず司馬欣のいた櫟陽を首都にした。
櫟陽はいまの西安せいあん(かつての長安ちょうあん)の東北方の高陵付近にあった小さな都市で、さきに司馬欣が急造した宮殿や庁舎があった。
この臨時の首都へ関中のあらゆる町や村から父老ふろうが集まって来て劉邦の戦勝を祝い、口々に関中の王になってくれることを望んだ。劉邦は儀礼として辞退した。が、再三の懇望こんもうという儀礼をうけ、やむなく、という型でもってこれを受けた。農民が推戴すいたいした王というものであり、いかにも百姓一揆の首領らしい王が出来上がった。
一方、民政家の蕭何しょうかは、いそがしかった。彼はかつて咸陽入城のとき押収した秦の行政に関する書類を点検し、亡秦の吏員りいんを採用し、一方、土地々々の父老から実情を聞き、良政を布しくことに専念した。
肅何ほどの民政家は中国史上稀というべきであったであろう。彼は後世の民政家のたれよりも権限が大きく、たれよりも無私で、たれよいも上から掣肘せいちゅうされることがなかった。劉邦は蕭何に任せきっていた。任せられてもこの男は私的勢力をつくることがなく、私服も肥やさなかった。
劉邦は、国名を創つくった。
「漢」
と、よんだ。漢中王であったときその地域呼称にすぎなかった漢を、そのまま関中にまで持って来たのである。
「この関中の地を永世に漢の根拠地にするためには、社稷しゃしょくをつくるべきでしょう」
と蕭何が献言した。劉邦は、言われてみて気づいた。かつては王だけでなく、諸侯でさえその領土の中心に社稷をもっていた。
「国をつくるとなると、いろいろわずらわしいことがあるのう」
劉邦は言いながらうれしそうだった。
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2020/05/02 |
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