社はもともとやしろでなく、神そのものをさした。とくにその国土を象徴する守護神のことで、小さくは村里にもあり、大きくは国土にも「社」という、神がまつられる。
稷しょくもまた神である。五穀の神である。社という字義と同様、神をもさし、同時にその祠ほこらをもさす。
土地神と農業神をまつって国家の宗廟そうびょうとする古代中国の思想または風習はその後の中国では変質し、衰弱したが、以下はついでながら上代じょうだい日本にそのまま輸入された。伊勢神宮は古代権力が多分に人工的につくった廟所だが、まず日の神がまつられた。次いで後代、いつのほどか同格の農業神があわせてまつられた。それが稷である。やがて内宮ないぐう・外宮げぐうを律令国家の社稷とした。律令日本は仏教を輸入しただけでなく、国家の社稷も輸入したと言っていい。
さらについでながら、この時代の中国の里りは二十五戸の集落とされていた。里ごとに氏神として社があることはすでに述べた。里における社には、建物がある。
しかし王国そのものの社稷には、建物がない。
杜もりという神聖空間があるだけである。
その杜の中に特別な空間を設け、そこに神が棲すむとする(まわりは鬱然たる樹林であり、建物といえば神主が住む家や祭祀のための屋おくがあるにあすぎない)。ただ空間のみをあがめるというのは、日本の原始神道にもある。ただ上代中国の場合、天の陽気(日光や風雨)と地の陰気(霜や露)をそこでうけるため、という陰陽説による神学的説明がある点、日本の原始神道と異なる。
亡秦しんにも、遠い諸侯時代からひきついだ社稷があった。
その王国が亡びれば新王国の建設者は前王朝の社稷の樹々を伐りたおし、杜を消滅させてしまう。社稷を亡ぼすというのはそこから出ている。
劉邦は亡秦の社稷を廃止した。といって破壊するのではなく、今までの神聖空間に屋根つきの建物をつくり、天の陽気を受けさせないようにした。亡国の社稷に対する古くからの処分法であった。
建物の北側に一つだけ窓をあけさせた。地の陰気がこもらぬよう、そこから抜けてゆかせるためであり、これも、「ほろぼす」ということの処分法の一つであった。
項羽がやった論功行賞の失敗は、日とともに深刻な結果をひろげはじめた。
本来、項羽軍 ─ 楚そ軍 ─ は各国の自称の王やその任命による出来星できぼしの侯たちのあつまりで、項羽は秦しんが亡びた時にそれらの多くを王や侯にしなかった。項羽の気に入りの者たちをあらたに王侯にし、かつての自称王については彼らを他地域に移した。あるいは王侯から格下げにした。ときに、韓かん王に対してもそうであったようにこれを殺したりした。
彼の論功行賞は、混乱と反乱、あるいは項羽への見限りのみを招いたといっていい。
たとえば、斉せい ─ 山東半島とその根元ねもと一帯 ─ の場合をいえば、項羽はこの地を肉のように切り刻んでしまった。
戦国の斉の王家は、田でん氏である。むろん、この王家は秦に滅ぼされた。そのあと、秦末の大反乱時代のどさくさにまぎれ、旧斉の王族の一人である田儋でんたんが自立して斉王を称したが、秦の将軍章邯しょうかんに攻め殺された。が、まだ田姓の者が多くいた。旧王族の田栄でんえいと田横でんおうがそれぞれ将軍として郊外に国外に出ていたが、田儋が死んだ時、田仮でんかという者が王になったため、田栄は軍をひるがえして故国にもどり、田仮を撃った。田仮は奔はしり、項梁こうりょう・項羽の保護をもとめ、かくまわれた。そのあと、田栄は田市でんふつという者を王にして、自分は宰相になった。
この複雑な政情の斉を、何人なんびとも始末できなかったであろう。項羽の単純さのみがそれに断を下すことが出来た。彼はその論功行賞の時、まず牛刀で叩き割るようにして斉の地を三分した。
それに項羽は斉の実力者である宰相田栄がきらいであった。
「あいつは、叔父の項梁が定陶ていとうの戦いでしきりに援兵を頼んだのに来なかった。叔父を殺したのも同然というべき奴だ」
と、最初から無視し、恩賞を与えなかった。
また項羽は、宰相田栄が擁立ようりつした斉王田市をも王と認めず、膠東こうとう(山東半島の先端)の領主におとした。
おおぜいの田姓のなかで、田都でんとという者がいる。この者は項羽が鉅鹿きょろくで戦った時、小部隊ながら斉兵を率いて戦場に来た。この無名の者をいきなり王にしてしまった。その理由は、
「斉のあのやつら・・・のなかで田都だけだった、俺と共に戦ったのは。──」
というだけのものであった。ほかに田安でんあんという者もいる。この者は項羽の陣営につねに侍はべっていて斉との連絡につとめただけでなく、人柄に可愛げもあった。項羽はこの斉人でさえ知らない旧貴族を一躍王にして、三分した斉のかけら・・・のひとつである済北さいほくに封ほうじた。
無視された宰相田栄が怒ったのも無理は無かった。彼は自分が擁立した「斉王」田市を新領土の膠東にやらず、斉都の臨淄りんし(山東省)にとどめ、王であることを続けさせた。臨淄は戦国の斉の都で、当時から大都会であり、秦になっても郡都として栄えた町である。
宰相田栄はいちはやく項羽に反乱した。軍を率い、項羽の一言で斉王になった田都を討ち、奔はしらせた。宰相田栄に擁立されている旧王田市は項羽の怒りを怖れ、あたらしい封地ほうちの膠東に向かったが、宰相田栄はこれを憤り、兵をやってこれを殺してしまった。田栄というのはまことにすさまじい。同族を殺した血しぶきのなかで自立し、自ら斉王を称した。
隣国の趙ちょうも、論功行賞で混乱と憤懣ふんまんが渦巻いている。旧趙の功臣・・だった陳余ちんよは項羽からわずか三県しかもらえなかった。一方、陳余の旧友でその後仲たがいした張耳ちょうじは旧趙の地をもらい、王になり、常山じょうざん王の称号をもらった。
陳余はこの依怙えこひいきに腹を立て、旧趙軍をかき集めて反乱した。陳余はまず張耳を襲った。張耳は逃れて遠く劉邦りゅうほうのもとに奔はしった。陳余は蔵から小道具でも出すようにもとの趙王歇けつを引っ張り出し、項羽の公認を得ない「趙王」とし、自分は代だいの地を占領し、代王となった。自立することはそのまま反楚ということだった。斉も趙も自立した以上、連合して項羽と戦わざるを得なかった。
ひたたび乱世が舞い戻って来た。
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2020/05/02 |
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