斉と趙ちょうという黄河こうが以北の国々が楚の項羽に背いたという報ほど、劉邦りゅうほうを喜ばしたものはなかった。
劉邦は、この間 ─ あるいはその後も ─ 項羽を恐れること甚だしく、彼が関中かんちゅうを制した時も、実を言えば喜びよりその裏面の項羽への怖れの方が大きかった。
「自分は関中を得たかっただけなのです。あなたに背くつもりは一切ありません」
という旨むねのことを項羽の耳に入れるようにしきりに工作した。
張良ちょうりょうがこの工作に大いに働いている。彼は多忙だった。彼は劉邦に従っていったん漢中かんちゅうへ入った後、すぐ中原ちゅうげんに引き返して自分自身の主人である韓かん王の成せいのもとで働いた。韓王成はむしろ項羽の拘束下にあった。
彼の本来の都は陽翟ようてき(河南省禹県)だったし、さきに項羽の論功行賞によってこの既成事実を公認してもらったのだが、しかし項羽の気持は積極的ではなかった。
── やつら(韓王成とその宰相張良)は劉邦に近づきすぎる。張良にいたっては劉邦の子飼いの謀臣ぼうしんではないか。
という不快さが、項羽の頭の中に常にあった。このため、項羽は韓王に禹県の安堵あんどを約束していながらその封地ほうちに行かせず、自分の陣営に足止めしておいた。張良にとっては韓王成に会うためには項羽の陣営に行かざるを得ず、げんに行った。彼は項羽に会い、
「劉邦どのは、関中が欲しかっただけす。決して函谷関かんこくかんを出て大王の版図をおかすようなことはありません」
と、劉邦の心と心情を細かく述べたため、項羽はあどけないほどそrを信じた。といって張良に騙されたということではなかった。もともと項羽は劉邦を見くびりすぎており、劉邦ごときが東進(函谷関を出て中原に入る)出来ようなどと、そんぽ実力から見てもあり得ないと思っていた。それよりも項羽の眼前に火の手があがっており、諸反乱を鎮圧することにかからねばならなかった。
項羽にはその鎮圧に自信があった。
ただ項羽その人には戦闘者としての自信があったが、彼の楚そ軍の欠陥は、武将たちが単独行動する場合に必ずしも強くないということだった。
── まず斉せいから討ち平らげてやっる。
ということで、項羽はその武将の蕭公角しょうこうかくという男に大軍を与え、たっぷり軍糧を持たせて北征させた。
斉はもとの宰相田栄でんえいがあらたに王になっている。
この田栄には、彭越ほうえつという、田栄などとは比べものにならぬほどに腕達者な野心家がついていた。ならず者の大親分というべき男であったろう。
「おれは彭越の息のかかっている者だ」
というだけで、あの秦しん
末の混乱時代、いまの斉のあたりの群盗が震え上がったと言われている。
彭越は、山陽の昌邑しょうゆう東省金郷県)の人で、もともとは野盗からのしあがり、秦末の乱に乗じて子分をふやし、項羽が関中かんちゅうに入ったころには万余の配下を持つ勢力になった。彭越は野生(山の猫のようにたれにも属したがらず、つねに自立したがり、項羽には一応の気脈こそ通じていたが、親しまなかった。斉の田栄が項羽に背くといち早くこれに協力し、臣従して将軍になったのは、田栄に忠であったわけではなく、田栄を与くみしやすいと思ったのである。項羽に背いたのも項羽がきらいであったわけではなく、出来れば項羽に取って代わって彼自身が天下人てんかびとになりたかっただけであった。彼はたしかに強悍きょうかんであったが、ただ人柄が野卑すぎた。劉邦が持つふしぎな滑稽感は劉邦好きの多くの人々をつくったが、彭越を好む者はこの乱世でも、あるいは稀なのではないか。
彭越が受け持ったのは、ゲリラ戦に近い活動だった。彼は主として梁りょう
の地 ─ 河南省の南半分 ─ を舞台とし、さかんに楚の領土をむさぼり食った。項羽がこれにたまりかねて蕭公角を斉へやったのは、とりあえず彭越を攻め潰させるためだった。
ところが彭越」のほうが強く、逆に蕭公角は惨敗した。
この報が入ったころ、劉邦が関中において漢かん王を称したという報も入った。
「いっそ鉾先ほこさきを変えて劉邦を攻め潰つぶすか」
と、項羽は一時思った、が、劉邦などいつでも潰せると思いなおし、自ら大軍を率いて斉を討つべく北上した。
ふりかえって思うと、項羽が、彼が関中を捨ててまでして好んだ楚の新都彭城ほうじょう(江蘇省徐州)で休息したのはわずか半年にすぎなかった。
項羽の大軍が北方に向かった時は秋も深まるころで、冬を待つ茶色っぽい山や野を人馬が華やかに彩った。黄が満ち、赤が動き、青がひるがえるなどさすがに天下の主力軍になった楚軍は、旌旗も軍装も美々しかった。とくに彼らは項羽みずからに率いられている時全軍に電流が走るように生動した。
斉の地になだれ込んだ項羽軍の強さは、比類がなかった。彭城とその軍は蠅はえのように逃げ散り、斉軍はいたるところで叩き潰され、ついに「斉王」の田栄は身一つで遁にげ、途中農民の手にかかって殺された。
「思い知ったか」
と、項羽は斉の地を転々としながら、何度も言った。彼は自分になつく者には途方もなく「仁強じんきょう」であったが、逆に自分に刃向かう者に対しては、悪魔のように残忍になった。項羽は感情の量が多すぎた。田栄だけでなく、斉の農民も女も子供もみな自分に背いたと見た。非戦闘者を手当たり次第に殺させ、村を焼き、各地で幾千という人間を束たばにして生き埋めにした。阬あなうめは項羽の得意芸になってしまった。
「殺されたくなければ背くな」
というのが、項羽の政治学に書かれているたった一行の鉄則だった。一人が背けばかならずその地域の男女を大虐殺した。それによってついには万人が背かず、自分になびくだろうという期待が項羽にあった。期待というより、当然そうなるという単純な数理のようなものが項羽にあったといっていい。
このため、項羽の戦いは戦闘より虐殺のほうで多忙だった。
彼は田栄に追われたもとの斉王の田仮でんかを楚から呼び返して王にしたが、斉人たちは項羽を憎み、田仮を王とは思わず、いたるところで一揆をおこした。この討伐に項羽は手を焼くことになる。 |
2020/05/03 |
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