一方、関中にいる劉邦は、項羽が斉に入った時、中原への進撃の好機であるとみた。
この項羽の動静についての詳細な情報を劉邦のもとに持って来たのは、項羽の幕営から帰って来た張良でった。すでに述べたように、項羽が斉へ出発するにあたって張良の主の韓王成せいを殺してしまったのである。張良は身ひとつで逃げ、劉邦のもとに戻った。
「なんともそれはお気の毒なことだった」
と、劉邦は韓王成の非業の死を、張良のために悼いたんだ。この男はこういう場合、たれよりも実じつのある顔をした。本心から韓王成の死を悲しんでいるのかも知れず、また主を失って、永年の韓の再興運動が水泡ほうすいに帰したことを張良のために嘆いているのかも知れなかった。このあたり、劉邦という男は、農民あがりであるだけに、表情が素朴だった。
張良は、名実ともに劉邦の臣になった。
劉邦はすぐさま張良を侯にし、成信せいしん侯と称させた。
「東進なさいますか」
張良は項羽を伐うつのは今だ、というのである。
「するとも」
劉邦も調子づいた。
彼はこの時以後、張良を独占し帷幕いばくの謀臣とした。全軍の総司令官は韓信であり、後方で一切の補給に任ずるのは蕭何しょうかだった。中国史上、それぞれの役割においてこの三人よりすぐれた者は稀といっていい。
これらは、紀元前206~205年にあたっている。
西にローマという、市民性の高い巨大な文明が爛熟期に入っていたが、地球の他の部分では劉邦のいる中国大陸が、右とは異質ながら文明の高さを誇っていた。あるいは人々の文明感覚の繊細せんさいさにおいて比類がなかった。
ただ、劉邦の属する中国社会は徹底して灌漑かんがい農業社会で、主権者は水を制すれば水の及ぶ限りの地域全体を制することが出来たという点で、ギリシャ・ローマ世界と異なる。そのことは、すでに項羽の言動にも表れていた。たとえば、項羽が、かねて邪魔になってきた義帝を南方の蛮地ばんちともいうべき郴ちんへほうり出そうとした時、義帝に使者をやって、 |
古いにしえの帝は、その領土は方ほう千里であったと言われていますが、その都はかならず上游じょうゆう(河川の上流)でありました。郴の地こそ上游たるにふさわしゅうございます |
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と、とくに上游であることを強調させた。川上かわかみを制すれば川下の農民は水を制せられ、抗あがらうと水を失い、田畑を枯らし、そのあたり一円の人々が餓死してしまう。項羽の使者のいうとおり、古代の王朝が土地を支配したのは、たしかにそういうぐあいであった。
中国大陸では、乾田かんでんの非米穀物、水田の米作、草原の遊牧、河川や沿海の漁業、山中での冶金やきんといったふうにあらゆる古代的技術集団が流入し雑居し相互に影響を与え合ったために、紀元前で巨大な文明をつくった。
ところが基本があくまでも灌漑農業社会であったために、農民個々が個人として独立せず、その独立性が尊ばれず、ついにギリシャ・ローマ風の市民を成立させなかった。しかしこのことは文明の進み方が遅れているというものではなく、単に生産社会の事情が異なっていただけにすぎない。
むしろ逆に言えば、灌漑農業社会の古代における高度の発達のために、ギリシャ・ローマ世界よりも、一定面積の上でははるかに多くの人口を養うことが出来た。これらの事情のために地域ごとに農民を密集させ、密集しているぶんだけ人々の個性をすり減らせ、ギリシャ・ローマに比べて人間の独立性という点を希薄にした。
しかし一面、事があればあらゆる地域にいる農民が、地球上のどの社会の常識にもあてはまらないほどの規模で一定の場所の大密集をとげた。この点は、ギリシャ・ローマ世界では考えられもしないことであった。さらにこのことは大陸にしばしば政治上の奇蹟を生む結果にもなった。たとえば易姓革命えきせいかくめいがそうであった。 |
2020/05/05 |