~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅶ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
彭城の大潰乱 (九)
劉邦とその軍は、この大陸のそういう条件と状況の海の上に浮かんでいる。
彼らが漢中の僻地から這いあがって、棚のような関中の台上にとどまっていたのは、わずか三ヶ月余であったに過ぎない。その一部は別働隊として先発し、武関から出て南まわりで大陸の低地部に降り、南陽(河南省)に出た。南陽とは、かつて劉邦が関中に進撃した時、人々の意表をつき、南まわりをとったときに通過した地帯である。
ここを支配しているのは、王陵おうりょうという男だった。
彼は劉邦と同郷のはいの人である。もともと劉邦が沛の町でごろごろしたいたころに王陵はごろつきの大親分であり、いわば劉邦の兄貴株だった。王陵自身は劉邦を子分だと思っていた。劉邦の勢力が成長すると、当然、王陵はこれを不愉快がった。
── あんな奴が。
と、つねに言い、劉邦の下風かふうにつくこをいさぎよしとせず、自ら一勢力を保った。といって項羽にも臣従しなかった。これに対し、劉邦は実に柔軟であった。つねに王陵に礼をつくし慰問の使者を送りつづけてきた。このため、やがて王陵も軟化した。劉邦がかつてこの南陽付近を刷毛はけで刷くようなあわさで粗々あらあらに平定した後、王陵を呼んで、ここをこの小うるさい先輩のための勢力圏にさせた。その後も劉邦は王陵を隷属させず、同盟者としての礼遇をつづけていた。このあたり、策略という冷たい発想から出たものでなく、かつて村落人間だった劉邦のいかにもそれらしい自然の人情からでた方針で、王陵の劉邦へのとげ・・のような自負心もいよいよけた。のちこの一種詩的気分を常時持った親分肌の男は、劉邦が死んでから右丞相うじょうしょうになり、劉邦の遺諾をよく守り、劉邦の妻の呂氏りょしの一族の跋扈ばつこに対し、終始硬骨の姿勢を保った。王陵のような男の士心を得たことを見ても、劉邦がただの田舎のごろつきではななかったことがわかる。
さらに劉邦がわざわざ別働隊を南陽に向けて王陵と接触させたのは、彼の両親や妻子の保護を王陵にたのむためでもあった。劉氏の一族はなお沛の郊外のほう中陽里ちゅうようりにいて農家の暮らしを続けていた。そのあたりはすでに項羽の版図の中であり、家族が捕らわれて殺されるか人質にされておのれの行動が拘束されることを彼は怖れたのである。彼らのことを頼むのは、やはり若い頃同郷で親しかった王陵のような者でなければならなかった。漢民族にあっては私的にこの種のことを頼むのは、頼む側も頼まれる側も、多民族にない感激をともなった。彼らの神聖な精神の一つであるきょうがはじめて電光を発して激するというものであり、王陵もまた感激してこの頼みにこたえた。
このため王陵は決死隊を沛へ出した。救出に成功したが、これに気付いた項羽は代わりに王陵の母を捕え、煮殺してしまった。王陵がその母を犠牲にして俠をなしたということは、劉邦にとって生涯、王陵に対する負目おいめになった。
2020/05/06
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