劉邦とその軍の主力が関中の台上を離れ函谷関をくぐり、中原の低地の降りて来るのは、右の時期から一ヶ月ばかり経った十月である。すでに触れたように、張良は戻って帷幕に会う。
劉邦は臨晋りんしん(陜西省)の渡し場で黄河上流のさかんな水流くぉ渡った。さらに東へ向かって進むと、さきに項羽によって「魏ぎ王」に立てられた豹ひょうというのが降伏してきた。このことは必ずしも豹の意志ではなかった。豹の兵も農民もみな項羽の暴虐をきらい、項羽のために劉邦を防ぐことに熱意を示さなかったため、豹としては劉邦に従うしかなかった。この一点から見ても、劉邦は明らかに時の勢いを得ようとしていた。
また項羽はかつての韓王成を殺して、鄭昌ていしょうという男を韓王にしたが、韓の人々はこの新王になつかなかった。このため鄭昌は孤独だった。小部隊を率いて戦い、たちまち劉邦軍に呑まれるようにして敗れた。河南かなん王の申陽しんよう(かつての張耳ちょうじの臣)も降参してきた。司馬卭しばこうという者がいた。かつて趙ちょうの将でいくさ上手な男だったが、項羽に引き立てられて、殷いん王になっていた。司馬卭も、殷の土地では浮き上がった存在で、劉邦と一戦を交えたがたちまち捕虜になった。
劉邦軍は、これら降将や敗将の兵をそのまま傘下さんかに入れて膨ふくれあがりつつ、函谷関を出てわずか一ヶ月足らずで洛陽に達するという幸運の潮しおに乗った。
この幸運は時・にもよったが、総司令官の韓信の作戦の妙も大きな力を発揮した。
(おれが、このように勝っていいものか)
と、この時期、劉邦はその幸運に酔うような思いがした。彼は常に負まけて来た、勝つという事の嬉しさは、どこか飽食ほうしょくに似て、次第に劉邦の思考力をぼんやりさせ、緊張をゆるめさせた。彼は、時・がそうさせることに必ずしも気づいていなかった。従って、時・というものが、海峡の潮のように膨らめばまた痩せるものであるということも気づかなかった。
(韓信はたいしたやつだ)
と思った。たしかに韓信の統率力と作戦能力というのは比類がなかった。ある夜、劉邦は韓信の幕営まで行き、褒めてやった。
が、韓信は喜ばなかった。
「どうも、勝手がちがうのです」
片頬の血だけを凍らせたように不快な表情で言った。正直なところ、韓信は、巧妙な作戦を立てているつもりだったが、結果はそれを必要とせず、常にむこうから勝利が勝手にこそがり込んで来るようで、あれだけ軍の指揮をしたがったこの男としては、この点、不本意だっただけでなく、自信を失いかけていた。戦いくさとは自分がかつて考えぬいていたこのとは違うのではないかという、奇妙な恐怖もあった。この恐怖は、自分の才能に対する疑問というべきものだが、本来、勇気とそれと同量の臆病さを抱え込んでいる韓信としては、臆病のほうの内質にその疑問が食い入っていた。
(なぜ、こうも勝つのか)
ということを、韓信は懸命に考えていた。この経験から韓信はやがて哲理や法則をたぐり出すのだが、ともかくこの時は劉邦から褒められることさえ物憂く、わずらわしかった。
「勝手が違うとは、どういうことだ」
劉邦は聞いた。
「私の力ではないような気がします」
「では、たれの力だ」
大王の徳というものです、とふつうの者なら言って劉邦を喜ばせるところだが、韓信は生来、無愛想な男で、ただ黙っていた。やがて、
「戦はどうも生き物のようですな。こんどの場合、私は戦という羊を追いたてている牧童でさえない。そういうことがわかってきたような気がします」
(存外、謙虚なやつだ)
劉邦はこのときの韓信をそのように解釈したが、かといって別に深い感じ入れでそう思ったわけでもない。だだ多少の神秘性のようなものを韓信に感じた。戦勝のなかで正直に首をかしげている総司令官というものを、劉邦は見たことがなかったのである。 |
2020/05/07 |
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