~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅶ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
彭城の大潰乱 (十一)
劉邦軍が、洛水らくすいに沿った洛陽らくようの城市に入城した時、この城市の南の新城という土地の父老ふろうが三人戦勝の祝いにやって来た。上部の権力やその交代とかかわりなくどの地元でも老父という地生じばえの市民代表がいるということは、すでに触れた。彼らはどういう将軍が町を占領しても戦勝の祝賀にやって来る。
ただ彼らが劉邦を迎えたこの場合は少し違っていた。劉邦が関中で兵たちをいましめて略奪や虐殺をやらなかったという評判は聞いていたし、それ以上に項羽の悪評を聞き、恐怖していた。項羽に対抗する者ならたれであれ歓迎する気分があり、心から劉邦の入城を喜んでいることが、顔に生き生きとあらわれていた。
その老父たちの代表の董公とうこうという者が、
「項王は、ちんへ赴く義帝に対し、兵にあとを追わせ、長江ちょうこうのほとりでしいし奉りました。この非道を許していいものでしょうか」
と、訴えた。
劉邦はこの噂を途中で聞き知っていたし、所詮はかつがれた者がたどるべき悲運だと思っていたから、とっさには驚かなかった。しかし横にいた張良が、声をひそめて、
「なぜおおどろき遊ばしませぬ。声をあげておき遊ばすべきです」
と言ったので、劉邦はその意味を悟り、とむらう者の礼儀の型としてあわてて上着を脱ぎ、下着をあらわし、えるような声で哭きはじめた。それが、哭礼こくれいという作法であった。が、やがて本気で悲しくなり、涙がとめどもなく出た。
董公と他の父老たちは、これを見て感動した。
すでに劉邦が哭いた以上、張良はあとのことをやらねばならない。全軍にを発した。すべての士卒に対し縞素しろぎぬを着せた。凶事に白を用いることはこの時代の礼であった。洛陽の城の内内外にみちる兵という兵がすべて白装したというのは壮観というほかなく、服喪自体が項羽に対するさかんな示威じいになり、また地域に対する漢軍の正義をあらわすことにもなった。
劉邦は三日のあいだ哭礼をおこなった。劉邦自身が屋内を出ず哭きつづけるのである。
さらには四方にげきを飛ばした。
その文章は後代のように冗漫でなく、ごく簡素で、みじかい。自分たちは天下とともにかつて義帝を擁立し、北面して臣として仕えた。いま項羽が義帝を江南に放ち、これを殺したのは大逆無道である、というところからはじまり
「願はくば、諸侯、王に従ひて、の義帝を殺せし者を撃たん」
という句でおわる。諸侯、王に従って、というのは劉邦が従って、という意味で、劉邦はたかだかと命令調で言うことを避けた。劉邦は数多い王の一人にすぎず、檄を受ける者は彼と同格の者なのである。「皆さんのお供をして」とへりくだったのは、儀礼の感覚にみちた表現といっていい。「楚の義帝を殺せし者」という表現も柔軟で、項羽を糾弾きゅうだんしつつも項羽のなま・・の名をここで入れないという点、礼のもつ婉曲えんきょくさにかなっている。
が、婉曲であれ何であれ、事実上、劉邦が盟主になって諸地方の王や侯その他の勢力を集め不義の項羽を討つ宣言文であることにはかわりがなく、同時に項羽に対する宣戦布告文でもあった。
三月の洛陽は雨が多い。れるとぬけあがるように空が青くなり、柳絮りゅうじょが雪のように飛んだ。
項羽と劉邦 ─ 楚と漢 ─ の血みどろな激闘はこの洛陽の三月から始まったと言っていい。
2020/05/08
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