~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅶ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
彭城の大潰乱 (十二)
劉邦りゅうほうとその軍は、東進した。
行くにつれて兵がふえた。かんちょうえんせいといった地域で項羽の論功行賞にうらみをもつ王侯とその軍兵が劉邦の東征軍に加わってゆくのだが、このために道路も沿道の町々も兵であふれかえった。
以下の数字は、信じられるだろうか。
劉邦軍の数は、つかの間に五十六万になっていたのである。
劉邦がかつて関中を去って漢中への桟道さんどうをたどった時は、三万しかなかった。途中、逃亡兵もあったが、この三万こそ劉邦と運命をともにしようとする中核であるといっていい。関中にもどって中原に出るにあたり、関中で壮丁そうていをつのった。かつてのしん人であった。これによって六万になった。
劉邦軍が六万に過ぎないというのは、この場合つらかった。六万が他の五十万の統制をするというの不可能というべきで、協力部隊の将たちは劉邦軍の寡少かしょうさをあなどり、劉邦や韓信の命令を容易にはきかなかった。
「敵を攻めるより、味方を維持するほうがむずかしい」
と、張良などは、統制のために肝胆かんたんをくだいた。この場合、ふつう、諸地域の王や侯をたえず劉邦の幕営にとどめておく方法がとられた。ていのいい人質というべきであり、兵だけを韓信の統率下に収めてしまうのである。
劉邦と張良は、これら尊大な人質たちの接待に明け暮れた。行軍中、毎夜、宴会をした。劉邦は接待の主人役としては相当な力量で、日を重ねるに従って彼らの心をるようになった。元来が野盗出身の者が多く、酔うと、
「劉邦!」
などと、呼び捨てにする者もいた。
「おれは酒癖がわるいんだ」
と、みずから称してからむ者もいあたが、劉邦は介抱し、決して酒癖がお悪いのではない、酒があなたの体を得て喜んで跳ねまわっているのです、といったりした。もっとも主人役の劉邦自身が百姓唄をうたって大はしゃぎすることのほうが多かった。この長大な胴をもった男が酔っぱらうと竜が宴席をにたうっているようで、えもいえず愛嬌があった。
韓信は、うまくやった。
「われわれは項羽の根拠地の彭城ほうじょう(いまの徐州)おとさねばならない。どの国の兵が一番に彭城を落とすか、天下の人々は耳を研ぎすましてっその報を聞こうとしている」
と、くりかえし全軍に言いきかせた。
具体的に目標を与え、互いに競争させ、みに揉んでその目標へ驀進ばくしんさせる以外にこの巨大な雑軍を統帥する法がなかった。
この事情は、韓信の幕営でもかわりがない。新附しんぷの小首領たちをたえず「軍議をしなければならない」という理由で人質のように集めてあった。ただ韓信は劉邦とちがい、彼らに一滴の酒も与えなかった。
「もしわれわれが肉を喰らい酒を飲めば、兵たちは足をげて敵に向かう気を失うでしょう。軍のいのちは気です」
と、小領主たちに説き、かれらの自制をもとめた。
このため、韓信の幕営は僧院のように静かで清潔だった。小領主たちははじめこのことに不服だったが、次第に韓信に魅せられるようになった。軍議は常に議論が百出した。韓信はどういう無口な男にも発言させた。しかし結局はこの大軍にあっては戦法などらなかった。進むことだけでよかった。
「一日も早く彭城にたどり着く、それだけです」
と、韓信は同じ事を繰り返し言った。
(十中八九、項羽は彭城を留守にしているだろう)
韓信はそのように見込んでいた。
たしかに、当の項羽は彭城をからにして斉へ行ってしまっていた。すでに斉王田栄でんえいを殺し、斉の城という城を焼き、降伏した斉兵を埋めることの好きな項羽は、ことごとく土中に埋めた。
しかしそのための斉人の反発力はすさまじいものであった。故田栄の弟の田横でんおうと田栄の子の田広でんこうが斉人の反発力を吸いあげて狂ったように反撃戦を展開していた。彼らは単なるゲリラでなくいったん項羽に奪われた城陽を奪い返したりした。項羽は斉の山野に無数に飛び火してしまった抵抗の火をしずめるために大軍を無数に細分化してばらまかねばならなかった。
2020/05/09
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