~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅶ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
劉邦の遁走 (一)
以下は、かつての話である。
はいの町で馬飼の李三りさんといえば一種の名物男だったが、今はおぼえている者も少ないだろう。
城外で百姓する傍ら博労ばくろうをしていたが、猿のように小柄だった。そのためいつも大きな馬の陰に隠れるようにして歩いているので、ちょっとした滑稽感があった。
李三は仔馬こうまを買ってきて良馬に育てることが上手であった。それを売るのが稼業かぎょうだが、すこしもむさぼらないためいつも貧乏していた。馬が好きだった。身も世もなく可愛がった。その馬好きの心が馬に伝わるらしく、彼がめるように可愛がるとどれもが気品のある馬になった。しん末、県庁の郡衙ぐんが の役人など、
「これは李三から買った馬だ」
といえば、自慢になった。
ただし李三の馬は軍用にはなりにくい。まず、強悍きょうかんではなかった。そのかわり文吏ぶんりや土豪が李三の馬に乗ると人までが品のいい君子に見えた。さらにいえば馬耕にもむかず、荷駄運びにもむかなかった。ああいうのは馬ではない、という悪評もあった。
── 馬というのは人のために運ぶか駈けるということだけでこの世にいる。良人りょうじんを乗せるだけの良馬なら馬以外の名で呼ぶべきだ。
と、いうのである。
「そのとおりだ」
悪評を受けるたびに、李三は小さくなった。彼は馬を尊敬し、従者のようにつかえ、可愛がりすぎるために、馬に気品が出来ても荒仕事の役には立たなくなうのかも知れなかった。李三に言わせれば馬は本来、風にも堪えぬほどに温和な動物で、彼らを戦場に駆り立てるのが間違いだということであった。
「強悍な馬が欲しければ匈奴きょうどへ行って買えばよい」
と、いつもつぶやいていた。
李三自身人間であるために、何人かの人間としての子がいた。どれも馬のように穏やかに育たなかったのは、李三には人間の子を育てることに興味がなかったからにちがいない。末娘を嫺嫺かんかんといった。仔馬のように機敏だった。ただ、
「このが馬の温和な気をなぜ受けなかったのか」
父親の李三がこぼすほどに気が荒かった。
李三が老いて死ぬと、長男が畑仕事のあとを継ぎ、次男が作男さくおとこになった。馬飼のほうはめてしまった。馬小屋を取り壊し、飼葉桶かいばおけも捨てた。たれもが亡父の馬きちがいには懲りていたし、馬くさい臭いも好きではなかった。こどもたちは幼い頃から李三に畑仕事をやらされた。李三は馬ぐるいしているために畑などかえりみる間がなく、その負担はすべて子供たちにかかった。李三が死ぬことで、馬と馬っをすべて追っ払うことが出来て、たれもがせいせいしているようであった。
葬式一切は、葬式屋の周勃しゅうぼつがやった。
「本当に悲しんでいるのは身内みうちの者でなくて、あいつだよ」
と、周勃は小声で仲間にささやいた。
あいつ・・・というその若者は、李家の表の細い柱に登って葬儀用の白い布を巻きつけながら、体のなかに間断なく悲しみの嵐が吹き狂っているらしく、息がたえだえになって、不意に落ちてきたりした。落ちても起き上がれず、柱の根元を抱いたままでいた。
それが、夏侯嬰か こうえいであった。
2020/05/11
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