夏侯というこの二字姓の家は、もともと沛の町ではいい家だったが、数代分家を重ねたために本家までが零細化した。嬰の家は夏侯一族の枝の中でも末にあたるために城内にも住めず、城外で他家の農地の番小屋に住んでいた。
嬰は少年の頃から馬好きであった。というより、馬好きの李三爺じじいが好きだったというほうが、正確かも知れない。嬰は十三歳の頃から李三の馬小屋に入りびたっていた。
「お前を傭やとってやりたいのだが、わしには人を傭うほどの力がない」
とm李三はなげいた。
少年は、そういうつもりではなかった。自家の農業を手伝い、暇が出来ると李三の馬小屋へ走って行き、その手伝いをするというわけで、労賃など貰いたいと思ったこともなかった。人間には、他の人間につき・・たがる本性があるらしいが、嬰の場合、せの性癖が濃厚すぎるようであった。たとえば、李三はどもり・・・だった。嬰もどもりになった。彼は洟はなみずの飛ばし方まで李三の真似をした。李三を尊敬しきってしまうことによって、水が流れ落ちるように李三のものが嬰なかに流れて溜まってゆくようであった。
嬰は、成人うるにつれて、身長がよほうもなく伸びてしまった。李三は老いちぢむばかりであったが、嬰はこの師匠を見おろすことが申し訳ないらしく、李三と話をするときはかならず跼かがんだ。
嬰は二十四、五歳になっても一家を成なせず、ほうぼうの農家に傭われて暮らしていたが、李三との関係に変化はなかった。
ある時県令が、李三の馬を買った。
「ついでに馭者ぎょしゃもいかがですか」
と、李三は嬰の名を言ってくれた。県令は夏侯嬰を馭者として傭い、あわせて県庁の馬小屋の管理もさせた。馭者とはいえ、吏であった。嬰はいよいよ李三から受けた恩を重く感じた。嬰は、恩人のためには死ぬことも辞さないという風ふうが中国史上もっとも濃厚にあった時代の人である。
その李三に死なれてしまった嬰の悲しみがいかに激しいものであったか、以上のことでもほぼ察することが出来る。
「薄みっともないから、およし」
と、柱を抱いて倒れている嬰の大きな尻しりを蹴り上げるようにして言ったのは、李三の末娘の嫺嫺かんかんだった。嫺嫺にすれば馬道楽の父が死んでも家族たちはさほどに歎なげいてもおらず他人の嬰にみが哀泣あいきゅうを独占しているというのは李家の恥をそとにさらすようなものだ、という。といって、嫺嫺だけはきょうだい・・・・・たちのなかで例外だった。彼女は変物へんぶつの父が好きではなかったが、その死が悲しかった。同時に兄たちや嫂あによめたちの薄情が腹立たしかった。彼らへの面当てのために嬰の尻に向かってことさらに悪罵あくばを投げつけたのである。
「何を言いやがる」
と、嬰が立ち上がって嫺嫺をひぱたたいた。彼女は、意外だった。
日頃、嬰はおとなしかった。貧家の子の嬰が、おなじ貧家の子の嫺嫺に対し、つねに、
「小娘子しょうじょうし」
と呼んで、下僕のようにうやうやしかった。
「なにすんのよ」
「でかい顔をするな」
嬰は言った。
「師匠が生きている間は師匠への遠慮があって黙っていてやった。師匠が死んだ以上、もう何の遠慮も要らない。わしは肚にすえかねていた。わしには、お前らが師匠のかたきに見えるわい」
言いながら言葉の尻がくずれて泣き声になった。
葬儀は三日つづいた。夜になると嬰は李三の子供を集め、李三がいかに人間として高貴な男であったかを語った。最初のうちは嬰を冷笑し、外へ出ようとする者もいたが、嬰はその頬を摧くだくほどになぐって、居ずまいを正させた。
嫺嫺もはじめのうちはなにかと口ごたえをしていた。しかし嬰の口から亡父を語られるにつれ、亡父が、自分の見て来た李三とはちがった人物のように思えて来た。ついに葬儀が済んだ日、嬰に、毎夜来てもっと話をしてくれ、というようになった。
「おまえは、李三じいさんの娘じゃないか」
と、嬰は言った。
「他人に語ってもらわねば自分の父親の良さが分からないのか、人間とは所詮しょせんそういうものか」
嬰が、さらに、
「馬っ気のなくなったこの家には、おれはもう来ないよ」
と言うと、嫺嫺は腰をくびらせて膝ひざを組なおしてから、じゃあたしがあなたの家へ行くまでだわ、といった。
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2020/05/12 |
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