~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅶ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
劉邦の遁走 (五)
まことに仲春で、秋ならおそろしいほどに気の澄んだ黄河こうがの東流するこのあたりも、靄気あいきのために星の数が少ない。
えい嫺嫺かんかんは、軍旅が宿営している村々から離れて、未耕の台上にすわっている。短い草たちが露を含んでいるが、嬰が冬用のかわごろもを敷いているために濡れることがない。このかわごろもは嬰が兵卒から略奪品をけてもらったものである。略奪品といえば、嫺嫺にも、嬰が兵卒の間をっまわって頒けてもらった草色の絹のきものを着せてある。そでが腕の長さより一尺も長く、すそ・・もひきずるほどに長い。えりは黒であった。この時代は、男は下帯したおびをつけず、女はしたもをつけなかった。このため交合が容易だったから男女間の事故が後代より多かったといわれる。
大男の嬰が、四方の胡人こじんのようにひざを組んですわっている。その上に嫺嫺が裾をたくしあげてしわっており、小柄だがせみが木にとまっているように見えなくもない。蝉といえば嫺嫺は小娘の頃、蝉とりが上手で、暗夜に火をいてはね・・の透きとおった蝉を捕っていた。
遠くに、篝火かがりびの群が地の星のようにかわ・・沿いに連なっている。
(なんと、くびの細い。・・・)
自分の羽交はがいの中で身をすくめている嫺嫺が、平素たかだかと物を言うにしては、晩春の蝉のようなはかなさであった。嬰はいとおしさで狂いそうだったが、挙動はそうではない。
「本望だ」
と、嬰は、嫺嫺の中で自分自身が存在しきったと思った瞬間も、わざと落ち着いてそんなことを言った。嫺嫺は、嬰のみぞおちに顔をうずめている。
本望とは、李三りさん爺の外孫そとまごを自分が生ませることになったことを言う。
「人間は、人の世でただ一つのことしか出来ない。李三爺は、馬を通してそのことをわしに教えてくれた。わしは劉邦さんについ・・てゆくだけで世をおえるのだ」
(この人は、こんな時に、何を言っているのか。・・・)
嫺嫺は痛みと甘さを伴った激しい感覚のうずの中のほんの小さな片隅で、そんなことを思った。亡父のことは、理解出来るようになっていた。しかしいつもならつい反射的に、亡父のそに道楽のために子供たちがえた、馬数頭を数年育てるためにどれだけの労力、あるいは 飼葉かいば作りという無駄な耕作が必要か、そんなことをする暇があれば他人の畑仕事に傭われるほうがよほど生計たつきのたすけになる、などと言い返していたかも知れないが、しかし今は嬰の声が、音階ごとにぶらさげた石の打楽器をかしかに叩いているように甘いリズムとしてきこえた。
もとも、嬰にとってもこのつぶやきは自分が淫事を行っているという意識を自分の中から押しのけつづけるために必要であった。しかし最後に、地の底からきあがるような感覚がはじけて、かけらも残さず砕けてしまった。
翌朝、嬰は嫺嫺を呂氏りょしのもとに連れて行き、自分の妻になったが掃除の仕事にでも使っていただきたい、とあらためて挨拶した。

2020/05/14

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