一方、夏侯嬰/rb>のほうは、なぜ自分たちの舟に王太子/rb>・・・と公女/rb>・・が乗っているのか、前後の記憶がなかった。乗船の時、岸辺を人々が狂ったように駈けまわっていたが、この少年と少女はそのたれもかまわずにおろおろしていた。それを劉邦が掻きあげるようにして乗せたのではないか。
当の劉邦は、舟に積みあげた馬車の中にいる。車上から、遠ざかって行く岸辺を噛/rb>かみつくような顔で見ていたが、彼の焦りから見れば舟あしが遅すぎた。劉邦の大きな顔が、土を塗ったように血の気を失っており、両眼だけが飛び出してたえず動いている。が、二人の子のほうは見なかった。
この日、風が強かった。劉邦たちが中流に向かって漕ぎ出したころに風塵/rb>ふうじんが舞いあがって、敗勢の漢軍に幸いした。風はいよいよ強くなり、このことが戦場を脱出する劉邦の姿を楚兵の目からくらませた。
(しめた)
劉邦は、風伯/rb>ふうはくに祈った。彼は若い頃からこの種の運がよかった。
風のために、川波がはげしく沸き湧き立っている。
舟の幅いっぱいに車が積まれていた。
この時代の車は、古代以来、かわらない。
左右の車輪の上に粗末な木製の箱のようなものを乗せただけのものでったあった。厳密には箱でもない。一坪/rb>ひとつぼほどの床/rb>ゆかがあって、その左右に手すりがある。手すり(横木というべきか)の上辺の横木を較/rb>かく式>/rb>しきという。>
腰掛はない。
乗る者は立つ。二頭の馬が引っ張るのだから、上下にたえず揺れるために乗る者は片手で較をつかんでいなけらばならない。
一坪ほどの床であるために、乗る者と馭者ぎょしゃは同じ床に立っている。繰り返すが、馭者といっても特別に台があるわけではなかった。
馭者は、二頭の馬の手綱たづなと一本の鞭を持っている。両手がふさがっているためにいかに車台が揺れても、右横の較や式につかまることが出来ず、あくまでも二つの足だけで体の平衡へいこうをとらねばならなかった。貴人の車は静に行く。その場合はいいが、もし走らねばならぬようなことになると、馭者は曲芸師だった。へたな馭者だと、馭者自身が車からつんのめって落ちてしまい、ひどい場合は車輪に轢ひかれたりした。このため貴人の乗用車であれ兵車(右と似たような構造)であれ、いい馭者を得なければ夫子ふうし自身が命を落としてしまう。
この点、夏侯嬰の馭術は大したもので、劉邦も、この車にさえ乗っていれば大丈夫であると思っていた。
少年と少女は、舟のへさき・・・のほうにいて、舟ばたをつかんで身をかがめている。その背後に大きな体の夏侯嬰がしゃがんで、たえず声をかけてやっていた。
少女は十三年前に生れ、少年は十年前に生れた。少女はのちに魯元公主ろげんこうしゅと呼ばれるようになる。
少年は、名を盈えいといった。のち漢帝国の第二皇帝となり、恵けい帝と呼ばれる。
劉邦はこの少年になんの期待もかけていなかった。
「あいつはだめだ」
と、人にも言っていた。
顔は姉の魯元より美しく、色白で、眉まゆやまつげが濃かった。ただ顔が薄手で、あごがかぼそくとがり、心は物事に傷いたみやすく、なにかに感ずればひそかに涙を溜ためているというたちの子で、気はとびきり優しかった。
「仁弱じんじゃくとは、あいつのことだ」
と、劉邦は後年なっても言い、一時、後継者であることから外はずそうとしたが、老臣たちに諫いさめられ思いとどまった。仁弱とは耳なれぬ言葉だが、婦女子のような情け深さを言う。「仁強」とともに、この時代の口語であった。
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2020/05/18 |
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