彼らは夜陰に紛れて北岸に再上陸し、北上した。
あとが大変だった。前方に一炬いつきよを見ても、おびえて道を変えた。山川草木がことごとく楚兵といってよく、夜が明けると馬車を森の中へ入れ、草に隠れて仮眠した。
睢水すいすいの北岸から沛はいまでの距離は、今日の日本でいえば熊本から福岡程度のものであっが、夜しか動けないため何日も要した。
途中、楚兵に何度も遭遇した。どの場合も戦わずに逃げに逃げたが、そのつど護衛兵の数が減った。当初随行していたのは十数人だったが、沛に近づくころには車のまわりに一人もいなくなった。
「嬰えいよ、お前だけが頼りだ」
と、あうがに劉邦も、屠所としょで病馬が最後にいななくような声をあげた。嬰は、自分が居なければこの親分は生きてゆけないのだと思うと、全身の毛穴が粟粒ああつぶだつような昂揚ををおぼえた。かん・・が研ぎすまされて、事前に危険が鏡に映し出されるように予知できた。草むらの中で突っ伏して仮眠している時など、
(嫺嫺かかんかんのやつはぶじだろうか)
と、思った。しかし無駄な事だと思いかえした。
沛付近にたどりつくと、故郷どころか、城内にも城外にも楚兵は充満していることがわかった。
「嬰、これはなんということだ」
劉邦は絶望のあまり、子供にかえった。餓鬼がき大将がいじめやすい子に歯をむくようにして、嬰を責めたてた。嬰にとって、この感じも悪くなかった。
嬰はかねて劉邦より自分のほうが利口であると信じていたが、この時こそしみじみ思った。
沛付近はなるほど楚軍の剣光帽影で満ちているとはいえ、血縁や知人が多く、敵味方の情報を集めることが容易であった。
「いっそ下邑かゆう(江蘇省碭山県)まで行きましょう」
「どこへでも行け」
劉邦は口でこそ憎まれ口をたたうたが、嬰に順したがうしかない。嬰が聞き込んで来た情報では、下邑に味方がいる。その者は漢軍の彭城ほうじょう(徐州)攻めに参加すべく単父ぜんぼ(山東省)から行軍しているうちに敗報を聞き、下邑にとどまった、ごく小さな部隊である。
首領の名を呂沢りょたくという。
劉邦の妻呂氏の長兄である。呂沢は劉邦に従って漢中から出たが、途中、故郷の単父で兵を募るために別行動をとった。そのため彭城陥落には間にあわなかったが、今はそれが幸いした。下邑は呂沢の父の呂公が長く留まって人々に恩を施した土地で、呂沢にとって危険な土地ではなかった。
「呂沢さんがいるのか」
劉邦は、なにやら情けなかった。
漢中では大盤おおばんぶるまいをして馭者の嬰を列侯につらねたように、呂沢も侯の身分にし、周呂公しゅうりょしを称せしめた。その漢王たる自分が今度は身ひとつで呂沢の保護を乞うことになるのである。
これが呂氏の長兄でなければこうも気が重くないのだが、そこは多少微妙であった。
嬰は、そういう機微はわかっている。
「周呂侯に下邑の防衛をさせて、大王はその西の碭とうへ行き、その沼沢地にかくれ、四方に使いを飛ばして敗兵を集めるのです。碭は何と言っても大王にはご縁の深い地ではありませんか」
「嬰、お前の智謀はあたかも張良のようだ」
劉邦は、はじめて喜んだ。
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2020/05/19 |
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