沛から下邑へ行くには、西南に道をとらねばならない。
沛付近は、息を殺すようにして通過した。
が、嬰が情報をかき集めたために漢王がこのあたりに逃げ込んでいることを楚軍が知ってしまい、捜索が急になった。
ときに、夜も動けなかった。
ついに危険区域を脱し、下邑に向かって西南にのびている街道に出た時、劉邦はやっと生色をとりもどした。このあたりは典型的な沖積平野で、文字どおり一望千里の野である。
彼らは馬車を駆って昼行した。
このことが失敗だった。下邑に近くなった時、前方から楚軍の一隊百人ほどがやって来た。歩兵もいたし、騎乗の者もいた。
「嬰っ」
劉邦は恐怖のあまり、両手をあげて嬰の頸を締めた。
「大丈夫です」
嬰は窒息しそうになりながら、言った。劉邦に頸を締められたことで、かえって肚がすわってしまった。
嬰は鞭をあげ、二頭の馬を打ちつづけた。この時代の鞭には、先端に立つのとげがついている。力まかせせに打つと馬の尻が傷つき血が浸むために、平素は鞭を用いない。
「トウ」
嬰は、叫んだ。馬の名であった。この二頭の馬は、嬰が良馬の産地である漢中を歩きまわって手にいれたもので、一頭をトウ名づけ、他の一頭をセイと名づけた。嬰は、トウとよぶと、すぐセイとよんだ。「良馬は策錣(鞭のトゲ)を待たずして行くき、駑馬はこれを策錣すと雖も進まず」というが、嬰の馬たちは嬰に打たれることで驚き、狂ったように駆け出したが、やがて嬰が自分たちの名を連呼しつづけることで事態の尋常でないことを知ったのか、鞭を待たずに駆けつづけた。嬰は鞭のかわりに馬の名を叫びつづけた。
名を呼ぶだけで、馬たちは奔った。
劉邦は右側の較にしがみついた。少年盈とその姉は左側のに絡みついている。
楚軍が驚いて道をあけ、馬車が風のように通過し去ってから車上の美髯の男が劉邦であることに気づいた者が居た。
彼らはいっせいに砂塵のあとを追いはじめた。
矢が飛んで来た。流う報は劉邦は絶望した。
しかし劉邦のたちとしてその絶望は心の内側へ落ちて行くそれではなく、この場合も火のように頭にのぼってしまった。
やがて馬が疲れてきて、車輪の回転がゆるやかになった。
ひとつには、盈とその姉が乗っているせいであった。劉邦はそれに気づくと盈のえりがみをつかんで車外へ捨て、さらにその姉が較をつかんでいる手をひっぱずして車外へほうり捨てた。
嬰は仰天して車を止めた。飛び降りて二人をひきずってきて車内にほうりこみ、さらに走った。
「嬰っ、勝手な事をするな」
劉邦は、怒った。
「子を捨てるのは、考えがあってのことだ」
「なんのお考えでございます」
「車を軽くするためだ」
劉邦の行為は、この大陸の伝統的な倫理思想からみて非難はされない。劉邦をくるんでいる儒教以前のどぞぅ土俗倫理も、儒教以後の倫理においても、親がもとで、子は枝葉にすぎず、孝の思想はあくまでも親が中心であった。親が危機にあるのに子が漫然として」その体重を車上に載せていることはなく、出来ればみずから車外へとび出るのが孝の道といおうものであった。劉邦の所行は、飛び降りようとしない子供たちのために孝の行為を手伝ってやったにすぎない。露骨にいえば親が存在する限りいくらでも子を生産することが出来るが、親である劉邦を生産することは出来ない。
劉邦はこれを何度もくり返した。
嬰もまた馬車を止めて子を拾い上げる行為を何度もくり返した。
ついに劉邦は盈を毬のように高々と差し上げ、飛び過ぎて行く路傍の畑に向かって投げた。嬰はすぐさま車を止めた。
「斬るぞ、とめるな」
と、劉邦が剣のつかに手をかけたが、嬰はすばやくとびおりた。拾い上げて再び馬を駆った。劉邦はなんとも出来なかった。嬰を斬れば馬車を走らせることが出来なくなるのである。 |
2020/05/19 |
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